◆◆◆ 1692 ★ ニーチェの本を読んだ感想 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2012.4.9.

ニーチェ。

漫画で出ていてヨカッタよ。

ツァラトゥストラかく語りき (まんがで読破) てせ検索すると、アタシが読んだマンガを買うことが出来ますぜ。

なんとなく、散漫な漫画で、たぶん、元の本が分厚くて、骨子を抽出するのが難しかったのだと判断した。

それでも、まあ、言わんとする主張や主義については、解りづらい文や翻訳などよりは、多少理解が進んだ。

ということだ。

本質をついていることも多くあり学べた。

が、

あくまでもニーチェの哲学であることを、読み手も受け入れるべきである。自分の哲学であると混同するのは、自分の哲学を持たない者なのだ。

若い頃にニーチェに傾倒していた人は、家族愛的なものが希薄だという個人的な経験値。

何人もの人に会い、知性は高いが、情報の取捨選択がニーチェよりだったということが、自己主義に走り、結果、家族よりも自己中心的な人生を送るという展開である。

それが、いいとか悪いとかではない。

ただ、世の中には絶対的な価値などはない。

哲学書というものは、確かに哲学に迷っている者には、なんらかの指標にはなるだろうけど、鵜呑みにして、その通りに生きるというとは違うのだ。

まあ、こういう話が書けるということは、哲学についての理解も進んだということになり、私は、精神とか、画業とか、そう、「画は人なり」という意味についても、大分理解が進んだということになる。

2005年というのは7年も前の話であり、7年もかかったが、手に入れる日が来たということになる。

そうして、大観先生の言葉の最後にあった、「慈」と言う言葉についても、7年後に思い起こすことができたのは、ツイていた。

哲学にとらわれ、慈のことはアタマに入ってなかったというのが、今までの私である。

個人的には、一日一善をモットーに生きているので、慈については、理解できているし、たぶん、そういう気持ちで私に接せられた人はギャラリーには多くいると思う。

慈の心というのは、困った人に同情するということだけではない。

今、この人に対し、自分にできることがあるか、それは何か。

そういうことを考えることができるのか。

そういう精神的な部分ではないか。

と、アタシは思っている。

というか、そういうものがないと、絵というのは良くならない。そう信じている。

そういえば、この前、ゴジラを見たんだよね。

ちょっとチャンネルを合わせたところ、引き込まれて、最後まで見てしまった。

あれは、コンテンポラリーアートなのかしらね。

ゴジラのフィギアの方が、アタシの作品より高い現実。

大物俳優が、真顔でゴジラから逃げたり、ゴジラと戦って大破したりというシーンが続々と続く。

キングギドラも、モスラも日本の守護神という強引な筋での展開にも驚いた。

が、全く違和感なく、どの俳優さんも、ゴジラを楽しんでいるというのが伝わってきた。

見ているほうも、なんか嬉しくなってしまうのだ。

ああ、作っている人は、前衛芸術家なんだって納得した。

そういえば、この前、映像作品を作っているという人がギャラリーを見に来たけどな。

ギャラリーというのは、物凄い力を持っているのだと思わされる。

円谷プロに、哲学を感じないかといわれれば、徹しているというのがアタシの感想であり、一途な業は、日本人を今も楽しませてくれている。

ウルトラマンがいなければ、私の子供時代も存在しない。

日記の更新が何故こんなに久しぶりなのかといえば、自宅のパソルームが寒いからなんだよね。

暖房設備がないのでね、あまり自宅のパソコンに触っていないという理由。

どうしても必要なときにはやるけどね。

春になったしね、何かを思い出したのよね。

別に、書けないということはない。

開けば、書くことは続々と沸いてきて、こんなどうでもいい話を、よく書くなと思いながら、

これを読んでいる人もいまだにいるということそのものが恐ろしい。

ということで、グーグル様より、また、ご入金がありました。

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円高なので、広告収入(ドル立てなので)少し減りましたけど、なんとか生きてます。

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