◆◆◆ 1675 ★ ボルタンスキーの番組-2 ◆◆◆

おじゃらのグルメ放浪記はじまりました。

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.11.6

ボルタンスキーのアトリエの映像も流されていた。

何でも、タスマニアの大富豪が、アトリエに、カメラを取り付けて、ボルタンの創作風景を眺めているのだそうだ。

たけしさんは、収録中のカメラが回っていないところで、裸になって、このカメラに映像を送りたいなどと、ギャグを飛ばすと、

ボルタンも、タスマニアは暇と(同情し)、サービスで、裸で作品をつくったりもしたことがあるとたけしさんに話していた。

たけしさんは、「考えることは俺と同じだね」と言い、ヘヘっと笑った。

裸になるっていうのは、ホント、卑怯な笑いネタだって思う。

そして、遺作は、ボルタンが、半透明の(網戸のネットのような品に包まれた)棺おけに横たわるという作品に決めていると話す。

なるほど、棺おけに見えてくるから不思議。

そこに、彼がテーマとして取り組んでいる、子供の顔の印刷物を載せたり、または、銅版をガイコツ型に切り取った、カワイイオブジェを寝かせてみたりして試行錯誤?を繰り返す。

たけしさんは、はじめの頃は、作品のことはサッパリ解らなかったけど、本人の解説を聞き、作品にどんどんと引き込まれてゆくのだと語った。

そう、コンテンポラリーアートの魅力は、「これが、作品なのか、それとも、作品じゃないのか」

そういう疑問を見るものに与えるという品に出来上がっているかどうか。

ここが重要なのだ。

こちらは、この前落札した小唄のレコード画像です。

ボルタンは、18歳まで引きこもっていて、アートを作り始めたのだけれども、

「アーティストになって、俺は、狂気から救われたのだと思う」

と話していた。

たけしさんは、確かに、このアトリエは、狂っているようにも見えると語り、だけれども、作品だと説明されれば、作品に見えてくる、

作りこまず、ガムテープが露出して、何かを貼りつけているような、粗雑な品なのに、それが、よく見えてくると話していた。

素直な感想だと思う。

こういう作品を見て歩いていると、丁寧に作りこんだ、完成度の作品というのが、どうにも物足りなくなってしまうから、人間というのは怖い。

アタシは、ボルタンの話を書きとめてゆく。

というか、この映像を、ギャラリーで上映したいわよね。

あはは。

やり方が解んないんだけどさ。

コンテンポラリー作品は、ある程度の理解が進むまでは、解説が必要になる。

画廊や学芸の人に説明してもらうと、彼らも正しく理解できてないから、見るものの関心というのは、物凄く減退してしまうとアタシは思う。

コンテンポラリー作品の解説は、作った作家にしかできない。

だから、作家本人、たとえば、デュシャンの作品であれば、デュシャンの作品に似た作品を作っている現代作家に説明を受けるべきなのだ。

彼の作品に似た作品を作れるということは、少なくても、彼の作品のことが理解できたから、作ることができるということになるからだ。

それは、足し算ができて、次に引き算、掛け算、割り算ができるようになる。という順番と全く同じである。

人に謎を与えるような作品を作るというのは、それはそれで、作家の才能であり、見るものが理解できないのは、見る側の勉強不足に他ならない。

彼の作品が、今回イロイロと紹介されたけど、興味深いところは、作品の共通性だと思う。

イロイロな表現を取り入れているのだけれども、どれも、人間は、個々に存在し、その存在は、今は無い。

何百年か後には朽ちてしまう。だけど、このときには存在していた。

そういうテーマで、イロイロな作品を発表してきているという、創作の筋(コンセプト)的なものが、シッカリあるところだと思う。

だから、次の作品を見ても、そういうコンセプトの作品だろうと類推しながら作品を鑑賞し、見るものが勝手に、ある程度正しい理解を進めることができてくるのだとアタシは思う。

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