◆◆◆ 1674 ★ ボルタンスキーの番組 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)
2011.11.6 たけしのアートビート、ヴェネチアヴィエンナーレ。 今年は、日本館には、束芋さんの映像作品が出されることになったのだという。 アタシは、デジタルスタジアムという番組で、確か、バリにいた頃、彼女の作品を初めてみた。それから、現代美術館かなんかでも見たことあるような記憶。 随分と成長したのだ。 そして、過去の作品も含めて、また新しい作品に昇華されて、全部が展示されるというのも、スゴイなと思った。 普通は、新作を並べるものだけれども、映像作品というのは、そういう見せ方ではない。そういうことになる。 アニメという、日本を代表する表現方法であることにも誇りを感じた。 束芋さんは、色使いが苦手で、浮世絵で使われている色を取り出して、アニメにはめ込んでいると語られていて、それはそれで、グッドなアイディアだと思った。 |
|
そのあと、イロイロなブースを回り、フランス代表の、ボルタンスキーの作品のコーナーになる。 ボルタンスキー。 確か、カルティエ財団の現代作品が、現代美術館に来たときに、映像を展示していた人じゃないかと思う。 群像が、画面に出てきて、物凄い勢いの水が、横から吹き出てきて、人が流されていく。 そんな映像がいくつかあったような記憶。 違ったらゴメン。記憶というのは儚い。 http://ojara.sakura.ne.jp/art/syabon4/120.html カルティエの作品を見に行ったときには、彼への感想が無い感じだったけどね。 記憶には残っているってことになる。 |
こちらは、この前落札した小唄のレコード画像です。 |
たけしさんが、ボルタンスキーを訪ねて、フランスに移動。 彼のアトリエで作品を作るのを手伝ったり、解説を聞いたり、そういう時間が流れる。 コンテンポラリー作品というのは、本人から説明を聞く必要がある。 学芸や画廊の人は、自分が理解できないもんだから、自分の理解できる範囲で、勝手に説明を変えてしまうから、ちゃんと伝わらないことが多いのだ。 大切なことは、本人が作品の説明をしている映像などをチェックすることである。 たとえば、クリストやジャンヌは、「この作品には意味は無い」 と、執拗に語り続けている。作品そのものには意味はないのである。 ボルタンスキーはといえば、人間は、個々に違うものであり、存在しているものである。 過去に存在した人は、だけれでも、今はいない。 そういう、生と死というものを見つめた、コンセプチュアルな作品群が多い。 |
|
作品を紹介すると、一つは、子供の古着を何千着も集めた作品。 4段ぐらいのスチール棚を、10個ぐらい入れた倉庫に、 無造作に、子供の古着を押し込んである。 それはもう、古着売り場って感じの展示。 ボルタン曰く、「この服を着ていた人は、一人ではない。それぞれが、違う人だったに違いない。それが、今は、子供ではなくなってしまい、もういない。かつては存在したが、今はもういないのだ」 と語る。 アタシも、似た作品を現代美術館に展示しよう。 着ない着物がいくつかあるからね。それを本棚に入れて、展示しよう。うん。 このように、似た作品(パロディー作品)を展示し、本物の作品写真などを置き、作品の解説を読ませることで、現代作品というものへの接触チャンスを増やし、ファンを作っていこうという計画なのである。 |
|
Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara. |