◆◆◆ 1622 ★ 薔薇を描く - 2 ◆◆◆
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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)
2011.5.4 この前、シュール展で、MIROの絵を見てから、アタシは、また、絵の自由ということについて考えている。 あんなふうに軽やかな作品というのは、どうして作れたんだろう。 あんなにカンタンなのに、どうして、絵に引き込まれてしまうんだろう。 私の疑問は、この二点に集約されている。 やっぱり、人間の力が違うんだろうって思うしかない。 彼の人間力のほうが、ずっとずっと上にある。 そういうことになる。 ピカソとミロは、交流があったと思う。 同じ国出身だしね。 まあ、絵の方向性は少し違ったけど。 パウルクレーの絵だってそう。 どうやったら、あんな絵になるのか、見ても、見ても理解できない。 具象なのか、写生をバラバラにして散りばめて、抽象化しているのか。 絵、そのものに、もはや意味などないのに、ぐっと引き込まれてしまうのだ。 それと比べて、右の絵の、なんと醜いことか。 こんな絵でも、久しぶりに描いた私の傑作なのだから、ついてない。 |
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私は、三岸節子の花の画集がお気に入りで、ときどき開いては眺めている。 精神で負けていると思う。 絵に対する思いが、まだ、弱いのである。 陶芸のセンセイが、入院することになって、生徒さんたちとその話になる。 オジャラ「センセイだって、今は死に切れないだろうからね、きっと良くなるよ」 アタシがそういうと、全員がうなずいて、センセイの帰りを待つのである。 生きている間に、作らなければならない絵がある。 この時代、何が起きて、いつ死ぬかも解らない。 そう思うと、また絵を描こうと思うのだ。 今描かなければと思うのだ。 |
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実は、今、大作の構想がある。 この絵を、100号ぐらいの絵に仕立てたい。 そういう構想である。 100号は、描きかけが一枚あるきりで、まだ、50号しか描いたことないんだけどね。 大きいほうが、向いているということだけは間違いがない。 絵の技術がまだ低くて、細やかな絵が描けないからである。 100号の絵だけは、ギャラリーで描く事になるんだろうな。 アタシは、それはやっぱり、どうなのか(また、絵の具をつけて帰る人が続出する)と思いながら、 物理的な問題が解決されないと、絵は描けないので、今ある環境で折り合うしかないと思うのだ。 みんな、大きな絵を描く時は、どうしているんだろう。 北沢さんなんて、6枚ぐらい同時に描いてるらしいけどな。 |
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大作の下絵を描くかどうか迷う。 まあ、絵は、頭の中で出来上がっているので、間違ってはいけない部分について、部分的な習作を行うぐらいに留めようと思う。 絵というのは、下絵を写すという作業ではない。 日本画の技法が、下絵を昇華させながら、それを書き写すという技術に支えられているので、伸びやかさとか、自由さとかが感じられないのだと思うことが多い。 石踊さんとか、前田せいそん先生は、日本画でありながら、たぶん、いきなり描いてると思う。 それが画力というものだし、その上手さや、絵の柔らかさにぐっと引き込まれるのである。 私のところにくる、絵を他で習っている人のことを思い浮かべてみる。 もう、何十年も絵を習っているのに、全く上手くならないのだ。 そうして、そのヘタクソな絵を何枚も私のところに見せにくる。 というか、アタシが写真の撮影をしてあげているんだけどね。 全くもって、信じがたい。 きっと、センセイの絵も下手なんだろうということが、最近やっと理解できてきた。 そうでなければ、絵の自由さや、面白さということについて、もっと考えを進められるはずなのだ。 もし、考えが進めば、絵も変わってくる。 変わってこなければならない。 |
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国画展に並んだ絵のことを思い出す。
どの絵も、力の入った作品なのに、見る側の心は動かされない。 絵が大きすぎるのと、数が多すぎることが原因だと思う。 見るほうは、そんなには吸収できないという量。 そういうことなんだと思う。 もう少し小さい作品にして、大作の力量ということよりも、マーケットで受ける作品ということに着目した公募が行われると、きっと話題になると思う。 20年もかけて画壇の会員となったって、別に、絵が売れるということではないのだ。 「あなたの絵は、私たちの絵と、毛色が違いますな」 の一言で、私の絵への感想は終わりである。 まあ、写真を見ながら描いた作品を、何十年も描いているのだし、絵への思いが、写真のように描くというところにあるのであれば、それは、筋が通っているとは思う。 そういう絵は、写真以上の完成度でなければ、誰も評価はしてくれないんだけどね。 人の絵のことを考えても仕方がない。 楽しみのために絵を描いているのであれば、それでいい。 絵を描いている時間というものは、何もかもから開放され、一人になれる、自由な時間だからである。 その喜びに溢れた至福の時間を、私は否定したりはしない。 |
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