◆◆◆ 1619 ★ 中川一政の記念館 ◆◆◆

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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.5.3

中川一政のテレビ番組を見る。

昔、その記念館を訪ねたとき(会社の社内旅行のついでだったが)

の話。

アタシは、画家になるなどとは夢にも思っておらず、絵など、たいして見たこともなかった。

という理由から、彼の記念館を拝見した感想は、

「何て汚い絵なんだろう」

という一言。

嫌まあ、今見たら、きっと、違う感想になっているかもしれない。

記念館にある絵というのは、記念すべき絵が数点のほかは、作者が手放さなかった売れ残り品ということもある。彼程人気があれば、良い絵は、とっくに売れてしまうのだ。

という内容だと思えば、納得できる。

この前、アートフェアかな。有楽町フォーラム恒例の。

そこで、薔薇の絵を見る。

ああ、なんて画力のある絵なんだろう。誰のだろうと思ったら、一政の絵だったことがあった。

まあ、絵というのは、そういう力の世界なのだ。

もちろん、見る側・買う側で、そういう画力以外のところで買う人も沢山いるんだけどね。

それは、金があるんだから、審美眼が磨けないということに近くて、アタシは、それはそれで、仕方がないのだと最近は思う。

審美眼がなくて、金があって、何でも買ってくれる収集家でなければ、画廊は儲からない。

良い絵ばかりを置くのには、コストもかかるしね。

良い絵というのは、フツーに売れてしまうのだ。

良い絵など、そんなには存在しない。だから、悪い絵も一緒に並んでいる。そういうことになる。

中川の言葉である。

絵というものが、どういうものか解らなくなっていた。若い頃、絵を描き始めていた頃はわかっていた。だけどずっと描いているとわからなくなってしまうんだ。

私は心の井戸のかいほりをしたのである。汚い水をかい堀して、くみ出し、くみ出した。

外に出した。

井戸がカラカラになったとわかったとき水が湧き出した。

それが二十年。私はその間、四面楚歌にいた。

*-*-*-*-*-*-*-*-*

私はハっとした。

絵を描くということは、描いていると解らなくなってくる。

なんか、今は、そういうものなのだと理解できる。

それは、私自身も、そういう状態なのかもしれないと、思い当たることがあるからである。

彼ほどの画家であっても、絵とは何かが解らなくなってくるのだから、私ごときが、絵のことが解るはずがない。

私は、そこに気づくことが出来たので、また前に進めると思う。

最近の素描を、竜さんに見てもらった。

竜さんは、いつも私の絵を褒めてくれるけど、そのあと、六本木の新美術館であったときに、MIROの絵の前に二人で立っていたときに、

「昔の絵の方が、伸びやかで、自由だったなと思うんだ」

とアタシが話すと、竜さんも、うんとうなずいた。

彼女は、もう長い間、アタシの絵を見ているのである。

バリ島から帰ってきた頃の銅版画を、今、ギャラリーの外のショーケースにかけている。

何にも考えずに作った作品だったけど、どこまでも伸びやかな線が広がり、楽しい絵だったと思う。

だけれども、もう、昨日には戻れない。

行く場所がどこにあるのか、全く見えないという作業の連続なのだ。

それは、一政の言う、井戸の泥をかい出す作業なのかもしれない。

私は、彼の創作風景などの映像を見て、あんなに年をとっているのに、外で描くという力がスゴイよなって思う。

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