◆◆◆ 1615 ★ シュールリアリズム 展  ◆◆◆

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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.4.29

27日、午後から六本木の国立新美術館へ。

強風のため、15分ぐらい、予定の時間から遅れてしまう。

今日は、キモノを着たんだけど、左が前か右が前か、突然不安になってしまい、(ちゃんと着れてたんだけど)アタシも、もうボケてきたよなって、実感しった。

この日は、シュール展を見て、それから、国展を見ようという計画。

同行の竜さんは、公募展の展覧会は見たことがないのだという。

竜「どっちを先に見るの?」

オジャラ「シュールに決まってるじゃない。稼いでいる絵を先に見ないとさ、(金を稼げてない)悪い絵を先に見ると、頭が混乱して、良い絵も悪く見えちゃうからね。」

展覧会の感想は、点数も、クオリティーも充実していて、素晴らしい内容だったと思う。満足だった。

オジャラ「アンドレマッソンの絵が多いわね。なんか、パッとしないのにね」

竜「どうしてかしらね」

オジャラ「今回、まとめて貸し出してもらえたんだろうね。数がまとまってるからね。展示っていうのはさ、ある程度数が揃わないと、盛り上がらないからね。だけど、この人の絵じゃ、集客できないでしょ。日本での知名度無いからね。だから、他の有名作家の作品をメダマにして、会場にちりばめているのよ」

という会話。相変わらず、夢の無い話ばかり。汗。

そうして、いくつかの映画を見たりもしながら、ニコニコとシュール展を鑑賞。

金を払っただけの価値はあったと思う。

デュシャンの「画廊のための入り口」であるとか、コップを感想させる道具が空中に浮いてたりして、嬉しかった。

デュシャン好きだからね。

デュシャンが好きというよりも、彼の作風の自由さが好き。

人間とは不自由なものなの。

自分や、人の作った常識というものを中心に思考し、行動するという習慣がついているからね。

そこから逸脱すると、問題児だとか、精神異常とか言われちゃう。

精神異常っていうのはね、どうなのかと思うけど、

まあ、コンテンポラリーというのは、そう見られても仕方のないような表現も含まれるということは、認めないわけにはゆかない。

オノ・ヨーコさんとか、テレビにでてくると、ウチのオットは、あの人は、気が狂ってるようにしか見えないって言って、チャンネルまわしちゃうもんな。汗。

マッソンの絵は、薄塗りで、なんかぼんやりしたのも多く展示されていた。中には砂を貼り付けた品もある。

竜「どうして、砂をはりつけたのかしらね。面白いわね。」

オジャラ「ホントウに(ダリぐらい)絵で差をつけられたら、誰もマチエールになんか走らないわよ」

竜「・・・・・。ははは。ホント、そうだよね。」

というように、展覧会を見ながらも、深く厳しい話が続く。

絵に特徴が出てこないと、やっぱり、人間というのは、焦りがでてくるんだろうね。

普通はでてこないもんだよね。

大量に絵を見ると、そのことがよくわかる。

MIROの絵がいくつもあって、まあ、そんなに力の入った作品ではないけど、絵の前に立てば、その、気の抜けたような自由さに、ぐっと引き込まれてしまう。

一生懸命に描かれたマッソンの絵などよりも、それは、ずっと印象に残るし、見ていても、飽きがこない。

いつまでも見てしまうような魅力に溢れている。

オジャラ「やっぱり、ミロの絵はいいわね。」

彼の絵がシュールリアリストだったのは、ビミョーに初期の頃だけだと思っていたけど、どうなんだろうね。

初期の絵は、借り出せなかったのかもしれないしね。

アタシは、バルセローナのMIRO美術館に3回も行ったことを思い出した。

ピカソの美術館には2回、

MIROの美術館には三度も行ってしまった。

あの、モンジュイックの丘を登って、大きな空と、町を見下ろす広場の上に立って、彼の作ったモザイクの椅子に座って、いつまでも異国の午後を楽しんだのだった。

アタシは、やっぱり、MIROが好き。

シュールリアリズムについては、説明が多くて、読む気にはならなかった。

並んでいる作品は、シュールとシュールでないものが混在していて、それは、予算的に仕方ないよなと思いながら、見るほうは、きっと、もっと混乱するに違いないとも思えてきて、それが怖かった。

タダ

シューリリアリズム

抽象

というように、時代は進化して、それらの作品を一まとめにするのもどうかと思いながら、シュールだけを集めるのも、作品の残存数的に難しかったんだろうと思ったり、

シュールを中心に、その前後についての流れを、素人にわかるように展示したといわれれば、そうなのかもしれない。

どちらにしたって、タダとか、抽象は、まあ、作れてると思う。

抽象作品は、そんなに本画にしてないけど、その理由は、アタシの描いた作品という確固たる画風に至っていないから、他の絵にしてしまっているということに他ならず、べつに、描けないということではない。

花や人物のクオリティーと比較すると、顕著に落ちるというだけである。

ダダについては、オシオッサさんと、不毛なる作品が、時折作られていることを勘案すれば、アタシの稚拙な抽象画よりは、よっぽど作品のクオリティーは保たれている。

シュール的な絵というのは、まだ取り組んだことがない。

どうしてもダリの絵や、マグリットの絵のことが思い出され、あれほどの作品になることは生涯ムリという、ある種の絶望感から、取り組むことができないという事情。

真っ当な理由なので、アタシは、そのこと(シュール作品に未着なこと)に満足である。

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