◆◆◆ 1717 ★ 俳句甲子園の番組を見る ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)
2012.9.1. テレビで流れていた俳句甲子園。 彼らの俳句が余り流れなかったことを除けば、そういったイベントが存在するという事実に驚いた。 俳句というのは、実は、物凄く激しい文芸表現である。 文芸とは、文学の芸術。 芸術、すなわち、瞬間表現なのである。 だから、アタシは、俳句を学んだときに、一気に『芸術とは何か』ということへの理解が進んだのである。 高校生。開成高校の場合、中学一年から俳句を作らされるらしい。 そのなかの選り抜き五人が決勝大会に出場するわけで、俳句界の未来は明るい。 ヨイ句を作ったとしたって、褒めてくれるひとが誰もいないのであれば、人は成長できないからである。 |
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俳句の最も辛いところは、数学や物理式のように、正解が一つではないという所だろう。 審査員のアタリハズレとか、好みの違い、そういうのが出てしまう。 それは、フィギアスケートや、体操、シンクロスイミングなんかのような、採点競技と同様なのだ。 しかも、人間の深さや、経験値などの違いも、評価の差につながってしまうところが、最も不幸である。 人間の多数決により、良し悪しが判断されるという部分が、俳句の本質から離れてしまっているのだ。 であるからして、そういった人間関係にアタマにきて、アタシは、一人で詠むという道を選んだけど、もう長らく詠んでいないことを考えれば、一人で戦うというのは、やはり難しいのだと思う。 こんなにたいしたことのないアタシの俳句集だって、読んでいる人が今だにいることも、奇跡の一つよね。うん。 そういえば、昨日も、アタシの俳句を読んでナントカカントカというメールをもらったよな。汗。 それはそれで怖いけど。 |
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でも、ちょっと知性の高い人で、作文や詩作が苦にならない人には、俳句を勧める事にしている。 一人でできるし、人生の楽しみが増えるからである。 俳句甲子園の番組では、俳句をそれぞれが評価しあう、ディベートが重点的に紹介されていた。 人間の幼さが露呈してしまう。 高校生なのだから、まあ仕方が無い。 まだ少ない経験値の中で、アタマデッカチになってしまう。 ノウミソの中は難しい季語だらけ。 馴染みの無い季語や単語を使う俳句に傾倒しないで欲しいというのは、アタシの旧来からの俳句を作る人への願いである。 俳句の最もドラマティックなところは、採点競技という部分だと思う。 句会で多くの人から点数を取り勝つ。 それは、『俳句そのものを良くする』という本質から離れ、人間関係を悪くするという方向に、必ず流れてしまう。 それは、人間の精神の戦いということになる。 |
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表現というのは、自由なものでなければならない。 それは、俳句であっても同じである。 自由とは何か。 そう、自由が解らないと、俳句が作れないということになる。 否。作ることは誰にでもできる。 それが、ヨイ句なのか、悪い句なのかを、誰か、判断できる人に客観的に見てもらい、こちらも受け入れないと、句は成長しない。 そういうことになる。 チームで、俳句を推敲するという訓練は、人間そのものを成長させることは間違いが無い。 ビジネスとしての収益構造が皆無という部分を除けば、俳句は心を豊かにしてくれ、人の気持ちを思いやったり、感性を磨いたり、柔らかくするに決まっているのである。 一人だけで作り続けると、結局は、独りよがりの句になってしまうからである。 (アタシは、どこかに属する予定はありません) 別だん、一人よがりの俳句でも、構わないからである。それは、俳句が人生の中心ではなく、人生の友だからだと思う。 また作ろうかな。 あめんぼう波紋広げながら上へ おじゃら句 (アタシは、自由律俳句しかつくりません。キッパリ) |
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