◆◆◆ 1581 ★ 田中一村展 ◆◆◆

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2010.9.24. 更新

千葉市美術館にて開かれている、田中一村展に足を運ぶ。

千葉は遠かった。

しかも、乗り継ぎなどにシッパイし、千葉中央までいくところを千葉駅で出てしまったため、モノレールにも乗る。

もう二度とくることはないだろうからね。

一度ぐらい、モノもいいだろう。的な、観光コース。

田中一村は、以前、テレビ番組で見たことがある。奄美に美術館があり、50歳で奄美で絵を描くために、隠遁生活を送る。

テレビ番組によると、芸大。

なのに、中央の公募展には落選をし続けたのだそうだ。

うーむ。片岡球子も、最初は落選をし続けたんだよね。でも、目をつけてくれる人はいて、その人に引き上げられたということになる。

何が違ったのかしらね。

50歳までの作品を見ると、当初は、南画の影響を強く受けて、絵はウマイのだが、これといった特徴は見当たらない。

もし、日本画の画壇ということで、院展に落ちたのだとすれば、きっと、審査員は、前田セイソンとか、横山大観だったに違いない。

ということまで、うすうすわかってしまうところが、怖いよね。

前田セイソン先生の梅の絵の、あの軽やかで、自由で、それでいて独自の世界も持つ画風を勘案すれば、当時の一村の作品が、画壇で賞ということはありえない。

技術は高いが、作家としての筋の通ったところが何もなく、絵から伝わるものが不足しているという(アタシの個人的な)評価。

それは、見る人が見れば、誰でも同じということなのだと思う。

芸大なのに、公募展に落選ということも、テレビを見たときにはガテンがいかなかったが、二ヶ月で退学しているのである。

教授との確執などがあったのか、方針に疑問があったのかはわからない。

芸大の先生が、入学するときに、学生に、何人が画家でやっていけるのか、おそらく、数人であろう。

などと、新入生を脅すらしい。

美術家で生きるということは、一筋縄ではない。

奄美に移った一村は、質素な生活をし、紬工場で働いて生計を立てながら、命を削って最後の作品郡を作り上げたのだそうだ。

日本画なので、大きく写実から離れるというところは、期待していない。

シッカリと画面に定着した厚塗りの顔料や、色の配置などは、特に勉強になった。

南画時代と比較しても、筆運びの力が向上し、構図の構成も極まって、デザインとして昇華されていると思う。

絵というものは、巧いというだけではいけない。

作品から、作家の信念のようなものが、あふれ出てくる。

そういう作品にならなければ、作家の作品とはいえないのだ。

それは、作家自身が、人間として成長しなくてはならないということに他ならない。

技術だけでなく、創作の本質や、求められている作品が何かを、自ら受け入れ、前に進むという力も必要なのだ。

世に溢れている沢山の絵を見ながら、人は、何故、公募入賞を果たし、それが、イコール画業だと思うのかを考えている。

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