◆◆◆ 1576 ★ 鈴木進次さんの写真展 ◆◆◆

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2010.9.20. 更新

鈴木進次さんの写真展が開かれている。

もう、今年で三回目となり、展覧会にも慣れてきた。

彼は、団塊の世代が集まって構成されている「ふれあい大学」に入ったりされていて、大学関係者が大量に画廊を訪ねてくれる。

すごいよな。

別に、写真を売るということでもないみたいだけどね。

売ればいいのにね。

隅っこに展示されている、カエルやてぬぐい、Tシャツがガンガン売れて、そのことに驚くよね。

展覧会の成功、イコール、リストを沢山持つことなのかと聞かれたことがあった。

知人が訪ねてくれたからって、展覧会が成功したとはいえない。

絵を見て、いい絵だから欲しい。

そういう人との出会いの場にならなければならない。

画廊というものは、そういう場であり、画業というものは、絵があくまでも主体なのである。

画廊の役割というのは、すなわち、画廊の審美眼を通して、絵の愛好のお客様を優れた作品に引き合わせる。

まあ、合コン的役割ということになる。

鈴木さんの場合、個人的なネットワークのリストがあり、写真を見に来るというよりは、鈴木さんに会いに、はるばる足を運んでくれる。

そういう感じだよなあ。

それは、職業とは違うのだ。

それでも、飲み会となれば100人集めるのは大変なのに、個展ともなると、150人ぐらいは、足を運んでくれるのだというから、アタシの方が驚いてしまう。

展示とか、展覧会というものに慣れてくると、集客と、販売というのは違う場所にあるということが理解できる。

写真の展覧会というのは、俳句と似ていて、あまり売ったりするものでもない。

ガツガツ売ろうとすれば、次の年からの集客は落ちるし、楽しい時間になれば、またやってくる。

よくよく聞いていれば、知人がどんな病気で入院しているとか、元気になったとか、どんな会に入ったとか、そんな話ばかりで、人間の老後というものには金がかかるのだと思わされる。

そうして、どの人も、ひとしきり話をすると、また画廊をさり、また次の人が入ってくるのである。

基本的に、写真にはたいした芸術性を感じていないし、もし、感じるのだとすれば、俳句的な、瞬間的で、面白い作品に、引き込まれることはあるということで、

それは、毎日カメラを持ち歩き、写真を撮っていると、そういう写真も中には混じってくるという、日常的な一部分という話になる。

作為がありすぎてもいけないし、長い時間通いました。いい写真でしょうという、嫌味があってもいけない。

気軽で、ホっとする、もしくは、笑えるような、やわらかい作品、人間の息遣いが感じられる作品が、最近は好きだ。

アタシの、イカス俳句天国を読み、自分のブログに感想を書いていた人がいた。

アタシは、驚いて、その人にメールを送った。

「リンクをはってくださって、ご紹介くださり、ありがとうございました。」

そのような、一般的なお礼のメールだったと思う。

彼は、返信に、

「ボクは、写真は、俳句だと考えていました。でも、『俳句は俳なんだよ。』とアタシがセンセイから教えて頂き、自分のコラムに、『もし、アナタの俳句に何か足りないと思うことがあるのだと気づいたときには、俳の研究もしてみよう』

と書いた部分を読み、衝撃を受け考えさせられました。」

というような、記事の感想を送ってくれた。

彼は、アタシの、イカハイちゃんを読み、写真とは何かを考えることになったということになる。

アタシは、別段、特別なことを書いたということではない。

読んだ方が、自分に足りないものが何かに気づいたということになり、そのときから、「本当の芸術とは何か」を探す旅が始まるのである。

その人は、もう誰かも解らない。それが、インターネットというものなのだ。

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