◆◆◆ 1560 ★ ベラスケスのラス・メニーナス ◆◆◆
2010.7.15. 更新 ベラスケスの、ラス・メニーナスが来るのか、絵の紹介がされていた。 アタシがプラドに行ったときには、あの作品は、あの作品一枚を取り囲むような部屋に入っていた。 そうして、絵の前にじんどって、キュビズムで模写をしていると、 修学旅行なのか、美術鑑賞会なのか、ガキ共が大量に入ってきては、センセイが解説をしているのを聞いていた。 英語のときもあったので、きっと、観光ガイドも混じっていたのかもしれない。 あのときには、この絵が、どうして有名なのか理解できなかった。 大きさについては、まあスゴイって思う。 昨日テレビを見て思ったことは、 王女以外は、みんな、悲しそうに見えてしまったことだ。 ああ、アタシも、とうとう、内面というものが、絵から見えるようになったのだと思った。 くったくなく微笑む、苦労も、自由もしらない王女の薄幸な笑顔。 取り囲む人々の楽しそうにも見えるその絵は、昨日はやっぱり、悲しそう。 そういう表現の絵になってしまう。 画家というものは、そういうものなのだと思う。 |
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アタシは、モディリアーニのことを思い出した。 最初は、油画の技術が足りなかった。 だから、絵はビミョーに黒を引きずり、暗いトーンに仕上がっていたし、内面というほどでもなかった。 後半、どんどんと表現の力がついてきて、描く人物は、人間の本質までも描きすぎてしまい、依頼主に引き取りを拒否されるという問題もいくつか起こしている。 ははは。 その話を聞いて、アタシは、モディもホンモノの画家になったんだって思った。 別に、悲しそうな顔をしている絵を持ちたいってことじゃないんだけどね。 だからといって、ルノアールのように、幸せに満ち溢れた世界ばかりというのも、創作者の結果としてどうなんだろうって、思わないワケにはゆかない。 はぁ。 そんなことよりも、テクニックをもっとあげないとな。 アタシの場合、まだ、内面どころじゃないよね。笑。 本人にも似てないってこともある。 |
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嫌、まあ、あまりにも相手を理解しすぎると、きっと、絵が、迫真に迫りすぎて、それはそれで、身近に置きたくない。 そうなってゆくかもしれない。 それであれば、ルノアールのように、幸せに満ち溢れた瞬間表現というのでも、いいような気がするわ。 今ギャラリーには、アタシの作品が飾られていて、どの絵も、幸せに満ち溢れている。 不幸な絵というのは一枚もなく、そういう意味では、それはそれで、絵の才能だと思わないわけにはゆかない。 ベラスケスには二つの秘密があり、彼の過去についての日記などの記録は、皆無なのだとか。 アタシの記録だって、WEBに置き続けている限り、限りなく皆無的状態。 しゃぼんだま青い空ぐらい、電子本にまとめて、自前のプリンタで、印刷しておくかな。 彼の二つの秘密というのは、一つは、下級貴族の出だというのが、貧しい人民だったということ。 もう一つは、彼の祖先が元はユダヤ教で、今はクリスチャンに改宗していたという家系。 |
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日本での、隠れキリシタンみたいな扱いだったんだと思う。 スペインの、宗教差別や拷問については、ロス・カプリチョスなどに、ゴヤも残している。 人間の恐怖や、思想を統一するという時代の恐ろしさについて考えさせられる。 そんなことでもなければ、ベラスケスの絵のような、内面に迫る絵が描けなかったのかもしれないと思ったりもする。 アタシは、今までフツーだった人が、精神的な病に追い込まれている背景の一つに、乗り越えるべき経験値の少なさがあると考えている。 外国で生活していて、現地の人の、貧しい生活や、人間として、どう生きるのかという、宗教観、道徳観。 本当に生きるために必要な能力とは何か。 イロイロなことを学んだのだと、今更ながら、あの三年間の深さに驚いてしまう。 たった三万円のために、強盗に、明日殺されるかもしれないという危機感。 自力で乗り越えなければ、前には進めない。 そういう生活だったと思う。 絶望か、生き延びるのか、死刑か、逃亡か。 ベラスケスは、そういう精神状態の中で、隔すべきものを隠し、宮廷画家の頂上に上り詰めた。 そういうことになる。 最近は、絵を見れば、作家の精神構造まで見えてくる自分が怖いぜ。たはは。 |
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