◆◆◆ 1540 ★ 光開通-2  ◆◆◆

2010.5.25. 更新

アタシにとっての回線業者のKさんは、今度は、別な質問をする。

「藝術って何なんですか?イロイロな絵がありますよね、絵を頼む人っていうのは、どうやって絵を頼むんですか?」

オジャラ「絵は、気に入らないと、依頼者は、出来上がった作品を引き取らないってこともあるからなあ。出来上がり次第じゃないの?世の中にある全ての作品が藝術ってことでもないしさ」

ここで、質問の答えになっていなかったことに、アタシは気づいたのだが、Kさんも、質問の仕方が悪かったと思う。

質問がダブル(藝術とは何かと、絵を頼むというのはどういうことかという2つ)だったからね。

以前、アタシが、信じられないぐらい画廊や展覧会を見て歩いていた時代に、とある画廊で、画廊の女将さんに

「藝術とは何かが分からないと、藝術作品がつくれませんからねぇ」

と話したことがあった。

女将さんも「うん」と頷いた。

少なくとも、最低限、作る人は、それが何かを理解せねば作ることは不可能だ。

ホントウにそのとおりで、少なくとも、コンテンポラリーとは何かが分かってから、アタシも、自然にコンテンポラリー作品ができてくるようになっていた。

知識というものは、そういうものである。

「藝術とは何か」というのは、あまりにも漠然としたテーマなので、素人に説明するのは難しい。

昔は、肖像がが主流で、絵は、依頼者が金を出して頼む場合も多くあったので、当然、気に入らなければ引き取らないということもあった。

という話が延々と続く。

オジャラ「たとえばさ、モディリアーニもね、いつも同じ顔のように見えるけど、だんだん技術が身について、その人の内面とかまで描けるようになってゆくわけよ。

そうするとさ、性格の悪さまで絵にでちゃってね、そんで、頼んだ人は、その意地悪そうな顔が気に入らなくて、絵の引き取りを拒否するわけでしょ。」

みんなゲラゲラ笑う。

それから、レオナルドダビンチだったか、それぐらい有名な作家も依頼主(教会)から絵を頼まれたけど、結局出来上がらないで断られたとかそういう話があったとかいう話をしたり、

若い作家さんなんかだと、物凄く力を入れた作品と、そうでない作品とのばらつきがでてしまうことが普通だとか、そういう、作品に向き合う作家の資質や人間性の話に発展する。

みんな、納得したのかどうか分からないけどその話は、うやむやになってしまう。

「藝術とは何か」

アタシなりの答えは見つかったのだと思う。

ぶっちゃけ、それは、作家の目指す方向をどこに置くかというのを、作家が決めるということになる。

「芸術性」というのは、作家それぞれが違う場所を目指すということになる。

そう、同じ作品であると、パクリと呼ばれてしまうのだ。

少なくとも、その作家さんにしか作れない何かが作品の中から見えてくるぐらいまでの力を最低限持たなければならない。

そういうことになる。

ただ、どういう方向を目指すのか、それに向かって、どういう結果を残すのかというのは、作家さんによって違うということである。

ただ、見るだけの人は、その当たりの気配には、物凄く敏感なのだ。

作るという作業がない分、稼ぐという話と、美術品にお金を使うという部分に集中できるからね。

絵の相場というものが分かってくるころには、目は物凄く越えてしまい、心を捉える作品などには、お目にかかれなくなってしまうほど、見る力があがってしまうというのは、個人的にも経験がある。

見るほうは、「まだ見たことがない作品を見たい」

そういうことになる。

「この作品は、あの人のに似てるね」

とかね、

「ああ、これは、どこかで見たことあるよね」

とか、

まあ、そういう作品が世の中の99.9パーセントということになる。

そうでない作品に出会うため、収集家は、画廊巡りをやめないのである。

少なくとも、アタシには、そのことが理解できている。

自分でも作品を何点も買っているし、その作家さんの、作品を安価でも売り、世に出ようとするエネルギーに、勇気を感じないわけにはゆかない。

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