◆◆◆ 1523 ★ 円空仏  ◆◆◆

2010.4.11. 更新

円空仏の番組を見る。

なんだか、パっとしないまとまり具合だった。

信仰を持たぬ人が作っているからそういうことになる。

というか、番組作りに関わっているひとが、キリスト系の人なんじゃないかなと思うことは何度かあった。そのシーンに、そんなにその露出が必要ではないのにと思うことがである。間違っているかもしれないのだが、まあ、そう思わせるだけの実態はあった。

そしてまた、今回の番組に、宗教観が希薄に感じたのも、そういう理由もあるのかもしれない。

信仰がふかければ、当然といえば、当然の結果なのかもしれないし、メディアという話をすれば、もっと客観的になってほしいとも思う。

話を仏像の話にもどせば、円空仏は、

仏像というよりは、いまや美術品。

へぇ、これがという、粗雑という言葉すら当てはまる造形。

素地の持つその素直さそのままに、

目鼻を掘り出し、仏の魂がこもる。

それは、作り手の意思そのものが現れているということなのかもしれない。

生涯に手がけた仏像は、12万体とも、14万体ともいわれる円空。

東北地方を中心に、日本各地を修行しながら、仏像をあちらこちらで作り置いてきた僧である。

塚に入り、仏になる。

という死に様も壮絶だ。

こんなに厳しい道の話を、仏教以外に、聞いたことがあっただろうか。

そういう、作り手の信心深さというのが、作品に表れているということだと思う。

その有り難さが、木っ端にも宿る。

キリスト教の布教が進むにつれ、仏教は仏教で団結を強め、各地に点在していた寺やその所有の観音像などは、城下町に移設された時期があったのだという。

信仰そのものは残っているのに、拝む対象が空洞化してしまうという実態。

心のよりどころをなくした人たちは不安になるからね、何がしかの仏様を置き祈りたい。

そういうときに、円空が旅をしてきたら、手厚くもてなし、仏像を寄進してもらうというのは、当然の流れであったと思う。

斧で丸太を幾つかに割り、ノミで豪快に筋を入れていくのだが、そのフォルムの正確さには驚かされる。

彫刻というのは、運慶の仁王像などであっても、何百、何千のパーツでできていて、あの造形になったという木彫も少なくない。

アタシは、今まで、木彫というのは、全部彫刻だと思っていたけど、塑像もあるってことになる。

それはそれで、勉強になった。

彫刻、すなわち、

掘り進むという作業だけで、造形を確立するというのは、物凄い高いスキルが必要になる。

それは、一度作ってみれば、どれほど遠い場所にあるのかが理解できる。

以前、柱材をもらってきて、仏像作りに挑戦したのだが、道具も悪いんだけど、全く言うことを聞いてくれなかった。

手にトゲが突き刺さり、木の流れに沿って、パコンと抜け落ちてしまい、造形が保てない。

木にもよるんだろうけど、ギャラリーは粉だらけになっちゃうし、あんまりうまくいかないので、とりあえず保留にすることに。

年かなあ。

という話がかれこれ半年ぐらい前にあった。

表現の方法は、別にこだわらなくても、アタシの場合、廃材だって結構楽しく作れるので、あまり、自分に向いていない方法にこだわるのはよそうと思う。

陶芸やテラコッタの塑像であれば、ずっと自由度が高まり、私らしい作品にできる。

木っ端を使った木材のオブジェだって、それなりに存在感はある。

まだ、売れたことが無いだけである。

カワイイのになあ。

ギャラリーをスタートするときに、廃材がイッパイあって、アタシは、ぼんやりしていたら、何個も、このような木彫を作っていて、邪魔だった。

そういえば、このときに作った作品は、どこにいったんだっけなあ。

一番左のは、メインの外看板の上に取り付けられたんだよね。

杖を持った紳士と、イヌなんだよね。

あとのは、ビミョーに行方不明。

右側の、黒い部分はオトコの髪。上に乗っているのは鳥。

アタマの上に載っているのは、鳥と決まっている。キッパリ。

どの作品もかわいかったけどなあ。

どこにいったのかなあ。

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