◆◆◆ 1519 ★ 文人画 / 植田正治 ◆◆◆
2010.4.9. 更新 テレビで、蕪村の文人画を見た。 誰の番組だったかなあ。 呉春の番組だったかなあ。 師として蕪村がでてきて、その解説に 「文人画とは、叙情性、目には見えない心の風景を軽妙に描く」 とか、「見たままを描くのではなく、心に響いた思いを描くもの」 などと表現している。 テレビ番組や、評論家という輩は、 あんなヘタクソな絵を、よくもまあ、こんなに賛美できるものだよなあと内心思いながら、その強い画力には圧倒されるものがある。 下手というのと、画力というものは、違うものなのである。 俳句で尊敬を集めていたという、別な理由もある。 俳句というのは、不思議な存在感を持つものだよね。 絵より上だったりしていたのかも。 俳壇とかいうもんね。うん。 画壇と同じような世界なのかもしれない。 |
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そのあと、植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)のテレビ番組を見る。 砂漠が僕のスタジオだと語っていた植田のうれしさが、写真から溢れ出る。 この前のアートフェアにも、彼の作品が一枚あった。 400万円ぐらいはするかもなぁ。 美術品には、相場というものがある。 だから仕方が無いのである。 遠目でも植田の写真だと、素人のアタシが見分けるほどの顕著さというのは、写真家では、実は珍しい。 土門拳という有名な写真家がおり、写真は、現実を写さなければならないという強い意志の元、リアリズム運動が主流となってしまったたため、植田の肩身は狭かったのではないかという時代である。 結局は、その方向性の違いから、お互いを認めながら、折り合うことは無かったというナレーションが流れる。 |
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それは、まるで、ピカソとルノアールのようだとアタシは思った。 ピカソのアトリエには、ずっとルノアールの絵が掛けられていて、アタシは、美術書の立ち読みで、その裸婦をみたことがある。 アトリエに、絵をずっと掛けていたのだから、ピカソは、別に、ルノアールの創作方向や、彼の絵画を否定しているということではない。 ただ、折り合うというのが難しく、また、片方が相手をうけいれることができなければ、距離が離れていくというのは必然だと思う。 だけれども、どちらも死んでしまった今となっては、どちらが間違っていたということではない。 アタシも、コンテンポラリーに入って、そのことを受け入れられない作家さんにも多く出会う。 コンテンポラリーを強要しているつもりはサラサラないんだけど、傾倒しているのだから、創作方向がそちらに向いてしまうのは仕方が無い。 |
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植田正治の話に戻れば、 「報道や記録の目というより、自らの心を大切にと願う、そんな詩的な表現。」 「ファインダーというのは、瞬時に対象を捉えるための小窓としてだけではなく、自らの心の世界を展開する目として使うことができる」 と話している。 創作というものは、自由なものである。 アタシの個人的な「自由度」という尺度を持って評価すれば、植田正治圧勝ということになる。 土門拳の、「非演出・絶対スナップ」 という考えが、間違っていたということでもない。 多くの写真家の心を動かし、写真界の大きな流れを作ったことに対しては評価をしたい。 ただ、それ以外の写真を撮影したからといって、否定するのは間違っている。 アタシは、土門拳の写真は、見分けることができないが、植田の写真に関しては、遠目だって、間違えないものも多いはずなのだ。 それは、はじめてみた作品だったとしてもである。 (理由は、砂漠の上に人物が配置されているからなんだけどさ) もし、創作者の作品なのであれば、作品のオリジナリティーというものは、隠すことはできないのだ。 |
今おもえば、サラリーマン時代に作っていた絵手紙は、 文人画的だったよなあ。笑。 ヘタクソだったよ。うん。 |
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