◆◆◆ 1518 ★ 小野竹喬(おの ちっきょう 1889-1979)  ◆◆◆

2010.4.9. 更新

小野竹喬(おの ちっきょう 1889-1979)のテレビ番組を見る。

ああ、これが日本画というものである。

単調化されたフォルムとその色彩、絵の安定感に心が引き込まれる。

テレビで紹介されたいくつかの絵は、本画を近代美術館で見たことがあると思うが、竹喬という名を知ったのは、今日がはじめてということになる。

あの、夕焼けの風景、「レモン色の太陽を桃色の光が包みこむ。そうして、海が黄緑」という色彩。

アタシは、あの絵のことは、生涯忘れないと思う。

皇后様が払い下げにされた図録に書かれた、前田 青邨(まえだ せいそん、 1885年1月27日 - 1977年10月27日)の文のことを思い出した。

そうして、画業というものには終わりはないのだと知らされる。

小野竹喬(おの ちっきょう 1889-1979)の日本画

解説をされていた「入江観」さんという方のコメントもよかった。

私が絵を見るときには

●澄んでいるか

●はりつめているか

●品位があるか

の三点だと話されていた。

アタシの場合、

●澄んでいるか  → 透明感があるか

●はりつめているか → 瞬間表現(動き)

●品位があるか → オリジナリティーがあるか、もしくは、その人にしかできない表現になっているか

この三点を見る。

このほか、「飾りたいかどうか」、「絵の自由度」という二点についても見ることは多い。

理由は、飾れない絵は、売れることはないし、不自由な絵は、作家そのものの力不足に他ならないからである。

絵の鑑賞者というものは、間違った鑑賞はしないものなのだ。

見れば見るほど、評点というものは限られてくる。

どういう見方をすることが正しいかという決まりは無い。

ただ、同じ方向になってしまうのは、当然とも思えてくる。

アタシは、このほか、絵を見るときには、絵の描き順というものも学んでいる。

どういう手順でその作品が作られたかを知ることは、絵を描く上で、物凄い力につながってゆくからである。

どの絵を見ても、この絵は、どんな画材で、どういう手順で描かれたのかを考える。

ほとんどの作品というのは、見ればわかる。

分からない作品については、画廊の人か、作家本人に聞くことにしている。

画廊の人がシドロモドロしていると、まわりにいる詳しい人が教えてくれることもある。

この前のアートフェアでも、

表面がザラザラなテンペラ画というのをはじめてみた。日本画の顔料のようなマチエールであったが、もしかしたら、定着が、日本画の画材よりも、強靭なのかもしれない。

もう一つ、日本画なのに、油彩と間違えた作品があった。

オジャラ「こんなに顔料をもりあげても、定着するものなんですかね?」

画廊「いや、これは日本画ですよ。カンバスに描いているんです。」

オジャラ「この方は、院展とかには出されないんですか?」

画廊「この作品は、どちらも院展の入選作です。もう、出展はしないみたいですけどね」

オジャラ「ああ、この画風では、賞は難しいかもしれませんよね。会の進もうとしている場所と方向性が違いますからね。日本画であっても、これぐらいの気概を感じなければ、描く意味がありません」

アタシがそういうと、画廊主らしきひとも大きくうなずくのであった。

アートフェァは、勉強になるよなあ。

確かに、右の絵には、品はないよな。

上の猫の絵は、多少よくなっている。

右の絵は、あっという間に描いたし、右側は、背景の白がまだ乾燥していなくて、墨がグレーになるのが気になって、急いで仕上げたからだよな。

色はキレイだったんだけどね。

心が行き届いていないと、出来上がってから自分でも反省したのだった。

こんな絵でも、何十年も残っちゃうんだから、絵画って怖いわぁ。

急いで別な絵にしなくては。

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