◆◆◆ 1416 ★ リチャード・マット事件 『泉』 R.Mutt 1917 の解説 ◆◆◆
2009.9.30 更新 前にも、一度、この話のことを書いたと思う。 右の絵が、ギャラリーにかけてあり、アタシは、絵の解説をよくするんだけど、デュシャンの話になって、ホトンドの人が、『泉』のことを全く知らないので説明に時間がかかるのよ。 『この便器は、11億円で、今は、アメリカのコスモポリタン美術館に展示してあるんですよ』とかいってもね、みんな、ウソだろうという顔をして、今度は、どうしてそんなに高いのかって聞いてくる。 でもまあ、現代美術は、理解できるようになると鑑賞が楽しくなるので、もう一度整理して、解説をしようと思う。 まず、過去に、どんなコラムを書いたのか、まずチェックする。 *-*-*-*-*-* 以下引用 テレビ番組を見る。 デュシャンの『泉』の話である。 あの作品がどうやって、世に出たのか、アタシは前から知りたいと思っていた。 便器が、こんなに有名になるということは、何か、理由があったに違いないのである。 それは、巧妙に仕掛けられていた。 なるほどねえ。自らが発行するアート雑誌も持っていたとはね。まあ、作品を世に出したり残したりするのは、当時は紙媒体しかなかったもんね。そうして、アンデパンダン展の理事かぁ。なるほどぉ。 *-*-*-*-*-*-*-*-* 引用終わり たったこれだけだった。これでは、他の人が理解できるはずがないよね。あとは、画廊で新聞を出す話に切り替わってしまい、ちゃんとした解説になっていなかった。はは。アタシは解っているからさ、別に書く必要がなかったんだよね。 |
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ということで、もう一度説明。 マルセル・デュシャンという現代美術家は、美術界の保守的な考え方、過去の作品に支配された、常識というものに、逆上していた。 また、工業製品の造形の美しさに心を強く動かされていた。プロペラやシャベルであっても、これもアートだという気持ちでイッパイだったらしい。 彼は、ハンガーかけを床に固定したり、スコップを天井から吊るして、立たせたりして、全く違う名前をつける作品をいくつも作ってアトリエに並べていたのだという。だけど、世に出しても、認めてくれる人はいないだろうということも理解していた。 常識的に、量産工業品(レディ・メイドと呼ばれている)そのものを美術作品として展示しようとしたりすれば、旧体質の美術界に、ソッポを向かれるに決まっている。 どうすれば、この造形美も、藝術に成り得ることを、後世に伝えられるのか。 自分が見出した、産業時代の新しい芸術の定義を世に浸透させるのかを考えたのだと思う。 こういった、新しい美意識や考え方を、どう、世に出すのか。 デュシャンは考えた。 そうして、物議をかもしだす、ある仕掛け(事件起す)をしたのである。 |
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デュシャンは、アンデパンダン展という展覧会の実行委員長もしていた。 アンデパンダンとは、6ドルを支払えば、『無審査』で、自分がアートと思うものを、何でも展示できる。 そういうコンセプトの展覧会である。 フランスの、『サロン』のような、権威の塊みたいな美術家や評論家が選んだ作品は、もう、古臭いから、もっと、新しい作品も、取り上げ、自由な作風を世に出してゆこうというのが、アンデパンダン展の目的である。 デュシャンは、まず、第三者を登場させた。 リチャード・マットという架空の男をでっちあげたのだ。 そうして、TOTOの便器を横向きに置き、R.MUTT 1917 と、作家名と作成年を明記し、作品として、アンデパンダンテンに出品したのである。 ところが、実行委員長は呼ばれること無く、会員間で緊急会議の結果、これはアートとは認められないという理由で、展示を拒否されてしまったのである。 デュシャンは、ここでもブチ切れて、会の理事長を辞退。 自らが発行する、THE BRIND MANという雑誌に、この、リチャードマットの 『泉』が、アンデパンダンテンに出展されなかったことへの憤りや、この作品が、何故優れているのかという評論を書いたのだった。 |
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何年か経ち、この作品は、デュシャンの作品だったに違いないと、関係者が思うようになっていったらしい。 そんでもって、それから60年ぐらい経ったあるとき、若い人達が、前衛的な表現の作品を集めた展覧会をやろうという話になり、ぜひ、この、『泉』も展示したいという理由で、 新しい便器をもってきて、デュシャンにサインを求めたところ、彼が、応じて、便器作品は無事に展覧会に展示されたという話になる。 実は、便器は、このあと、いくつもサインされて、それぞれが、有名美術館に収蔵され、世界を巡回しているという噂。 京都にも一個あるらしいよ。 これが、リチャード・マット R.MUTT事件の全貌である。 アタシは、この解説を聞いたのは、便器を見てから、もう4年も経ったときだった。 でもまあ、刷り物にして、自分の作品を他人の作品の振りして、評論まで書いちゃうっていうのは、なかなかイカしていると思ったんだよね。 自分の作品を世に出すため、架空の人物をでっちあげるかぁ。 なかなかできることではない。 |
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