◆◆◆ 1372 ★ 個展の様子 ◆◆◆
2009.7.17 更新 別段、絵が売れるということでもないが、人はひっきりやしにやってくる。 長いこと、ワタシが、木を彫ったり、絵を描いたりするのを眺めてゆく人が多い。 放哉の俳句を読みながら、次々と絵を描いてゆくのだが、中には、ときどき、俳句の意味が解らないとか、映像が思い浮かばない句というのがある。 放哉の場合、とくに、そういう、観念的な単語を多く含む俳句が多いように思う。 たとえば、 「つかれた物」という表現について、どんな絵をつけるのか。 ここが、対決場なのだ。 そう、放哉 VS オジャラ という対決なのである。 このとき、丁度大工さんがいて「やっぱ、キツネとか、タヌキってワケにはいかないっすよね」 という話。ははは。(ホントウにこういう会話が繰り広げられている) |
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蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る 放哉句 という俳句では、死んだヘビをどのように表現するのかという話になり、アタシは、眼をバッテンにしたところ、大工さんは、思うところがあったみたい。 そうして、オジャラ「やっぱ、天使の輪は必要ですよね」と丸い絵をヘビのアタマに付け加えると、 大工さん「あ、やっちゃった」 オジャラ「なんか変っすか?」 大工さん「嫌、死んだヘビっていうからさ、俺も、そうかな(天使の輪かな)と思ってたんだよね」 オジャラ「かぶっちゃったわねー。ははは」 楽しい俳画制作教室的な。 |
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声かけて行く人に迎火の顔をあげる 放哉句 という俳句では、迎え火は、藁のような品を、ジベタで燃やすという話になる。 アタシは、提灯を持って、お寺に行くことかと思っていたので、絵そのものが根底から違う絵になる。 そうして、やっぱ、声を掛けられて、迎え火の人が顔を上げたら、のっぺらぼうだったりすると楽しいよね。 とか、勝手に盛り上がり、顔を描かないことに決める。 絵というのは、何らかの遊び心が入っていないとならない。 それは、山本容子センセイもそう話されていた。 見て、ふふふと、笑ってしまうような、最低でも、それぐらいのリップサービスは必要だろう。 人を笑わせるというのは、そんなにカンタンなことではない。 笑うということや、「笑い」とは何ぞやという話に繋がってくるのである。 |
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大工さん「え、朝顔の絵、もう出来上がったんですか」 オジャラ「これ以上描きようがないよ」 大工さん「絵、描くの早いっすよね」 オジャラ「絵の仕事が来ると儲かるんだよ。いくらでも描けるからね。こないけど。笑」 という会話。 思い返せば、バリ島で、山頭火と放哉の俳句に絵をつけるシリーズは、自分の創作の力に自信みたいなものはつけてくれたと思う。 いくらでも描けるということは、少なくともうけいれることができたということになる。 まだ、絵がヘタクソなだけなのだ。 それだって、フツーの人は、こんなに沢山、描けたりはしない。どんなに困難な絵であろうと、何らかの形にする。 それが、絵を描くという仕事なのだと思った。 |
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