◆◆◆ 1353 ★ 陶芸工房 一隅 絵付け ◆◆◆

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2009.6.26 更新

昨日は、久しぶりに、陶芸教室に行く。先日、絵が売れた時に、教室のチケット買ったからね。

最近作っていた、抹茶茶碗や陶製のボタンに絵付けをするためである。

抹茶茶椀の絵付けの下絵のスケッチは、実は、もう何枚も描いている。何十枚かな。

どの下絵も、どの絵も、他の作品を模写したもので、そういう意味では、自分の作品ではない。

抹茶茶椀とは何か。

ここが大切である。

茶人だからね。

でも、自分の作品ということも大切にしなくてはならない。作家だからね。

アタシが、IH茶人となったのには、いくつかのきっかけがある。

●茶道具をくれるという人がいたこと。

●IHのコンロでも、鉄鍋が沸かせることが解ったこと。

●泡立てるだけなら、そんなに難しくないこと。

まあ、それが主な理由である。

茶椀や、その他の茶道具を自分で作るようになるとは全く思わなかったけど、茶を点てると、どんな茶椀で飲むべきなのかも見えてくる。

そういう茶椀を作りたい。

土もあるし、窯もあるし、何よりも、それを作る力がある。

センセイは、いつも、「どんな作品も、壊れてはいけない」と教えて下さるので、心強い。

楽茶椀のように、中途半端な焼き具合で、壊れやすい茶椀を、大切に使うというような、屈折した考えとは違う。

もしくは、割れるのが前提で、漆で接いだりした、壊れた茶椀を大事にするという考えは、何かなあ。

金持ちの道楽だから、それでよい的な、贅沢な話なのである。

貧乏茶人は、「精一杯のおもてなし」をすればいい。

茶道の心は、実は、「精一杯のおもてなし」

ただ1つである。

アタシは、どんな本も読んだりはしない。一度、テレビ番組で、茶道入門みたいなのの初回をチラリと見たきりである。

家元の息子らしきイケメンちゃんが、「精一杯の道具で、精一杯のおもてなしをする」

と話していた。

「精一杯のおもてなし」が、「精一杯の道具」にすり替わっている。

別に、彼らもそれが商売なので、アタシは、否定をしたりはしない。

二足三文の茶椀に服を着せ、箱入り娘として、弟子に、高値で売ろうとも、彼には、二足三文を500万円に見立てる、審美眼があり、それで荒稼ぎする商才もあるということになる。

価値というのは、その価値を取り巻く人達が創造する部分もある。それは、絵画の世界でもそうなのである。

「精一杯の道具」の茶道は、道具をどうやって鑑賞するのかとか、主や、創作者思いであるとか、季節の話。まあ、そういう、マニュアルのようなものがあり、奥深い。

来る人も、主も同じようなマニュアルで、基礎知識を仕入れて、茶会に挑むということになる。

アタシは、サラリーマンの重役クラスの間で、一般常識や、時事などの話題づくりのため、「週間ポスト」を読むことが流行っていたというのを思い出した。

共通の話題=サブカルチャー

アタシぐらいの年齢であれば、マンガやアニメの話で十分に時間は保てる。

アタシは、秘蔵のバリネタでも、何時間も話せるし、アートの話が好きな人であれば、相手が素人であっても、永遠に話し続ける。

もともとシャベリーだからね。

しかし、共通の話題づくりというのは、ある程度の努力の上に成り立つ。

相手に嫌われないようにしようという、最低限の社交性が無いのであれば、共通の話題など、必要がないということになる。

話がつまらないとお友達もできないし、少なくとも、良い人にならないと、友情は育たない。

そういう、相手にとって良い人(役に立つかどうかとか、それ以外にも理由はあるけど)でなければならない。そういう人間になれば、また、人は、私に用事ができるのだ。

おじゃら画廊

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