◆◆◆ 1165 ★ 三輪田 米山の書 ◆◆◆
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2008.6.17.更新 |
ヘタクソな書だよなあ。 酔っ払い、泥酔の極みになったときに、ヨイ書が書けるという逸話。 何でも、古典的な書を学んだ人なので、上手く書こうという気持ちが、書に出てしまい、理性あるうちには、ヨイ書が出て来ないという理由らしい。 ヨイ書とは何か。 アタシが彼の作品の中で、最も心を動かされたのは、漢字に、自分で濁点を追加したりしている、創作の文字についてであった。 ああ、文字という表現にプラスがあるわけなのね。 自由ねぇ。 もう一つ、書が読めるという所。 ここは、オッケー。 そうして、最後にもう一つ、 一つだけ、何だかよく解らない文字を混ぜるという部分。 近づいて、他の文字などを勘案すれば、ああ、これは、林という文字なのね。 というのが理解できるけど、全部を読みやすく書いたのとは違い、その、読めない文字が、何と書いてあるのかを考えるため、見る者が作品の中に引き込まれるのだという。 なるほどぉ。 |
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「作品の中に謎めいた部分を残す。」 というのは、芸術の根幹って気がするわね。 それを、100年も前に、書で表現したというのが、スゴイ。今のように、そういう類のマニュアルや美術教育書などなかったはずだし、しかも、書であれば、なおさら、そんな考えを持つというのが驚きである。(それは、今であつても、驚かされる。) そうして、彼の書は、地元のあちらこちらに大量に残されていて、家宝にされているというのもスゴイ。 絵手紙を作られた、小池さんは、幼少の頃、米山の地方で育たれたらしく、そのゆったりと、力のある(神社の柱に彫られた)文字に引き込まれたのだと語られていた。 アタシも、読める書というのに一票。 それは、小池さんも、おなじ気持ちだと思う。 |
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もう一つ、重要な展開。 それは、山本発次郎さんという収集家(蒐集家)の話。 佐伯祐三を世に出したということでも知られていて、山本さんは、米山の書を集めて、展覧会を開くため、地元で作品を発掘したのだが、(田舎の人の警戒心からか)抵抗にあい、無念のうちに、他界されてしまったのだという。 なるほどねえ。 別に、どの書でもヨカッタということではないと思う。 ここが肝心である。 日本人のアートを取り巻く環境というのは、知名度さえアップすれば、ゴミのような作品でも欲しいというマーケットが出来てしまう。 道楽という言葉が最も正しい。 ところが、投機と勘違いされている場合もある。 だから、損した、損したと大騒ぎになるのだ。 いやまあ、アタシの金ではないから、別に構わないのだが、真贋も見分けられない人が、骨董商の言いなりで、ニセを掴まされるという被害を聞くと、ついていない世界だと思わないわけにはゆかない。 |
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2008.6.21.更新 今日は、区展の搬入と搬出がある。 今年は、洋画・彫刻・写真・書道に出すため、搬入と搬出が何回かある。 書は、自力「裏打ち」に失敗したため、書は悪くなかったが、ビミョーに見栄えが悪い。 その後、写真の裏打ちをするが、こちらは成功。 次回は、書も、写真と同じように裏打ちすることに決める。 書はともかくとして写真の裏打ちっていうのが不思議よね。(今年は、低予算という理由から、自宅のボロプリンタで出力したため、もしかしたら、展示を拒否されるかのうせいもある。) 半切をプリントすると、4000円ぐらいかかるんだもん。別に、写真家になるわけでもないし。 写真の展覧会も、書の展覧会も、キチっと表装されているため、展示が物凄く美しい。 大きい会場での展覧会というのは、展示の額などを統一させることが、展示を盛り上げるポイントかもなあ。 同じ枠に入り、作品が並ぶというのは、どういうことかを考える。 それは、作品の力の差が、具体的に理解できるということになる。 今年の「ゲロゲロ毛糸筆-2」ちゃんも、 素晴らしい出来具合で、写真をまだ撮影していないため、皆さんに見ていただけないのが残念である。 |
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