◆◆◆ 1146 ★ 池田満寿夫の陶芸作品 ◆◆◆
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2008.5.14.更新 |
もう、東京の展覧会が終わってしまったというのに、今更満寿夫の番組が流れていた。 出来得れば、行く前に見たかったよ。 あの展覧会は、良い展覧会だった。 天才というのは、あれぐらいの作品を作るものなのだということは、大いに理解。 銅版画家からスタートしたといったって、ゆくゆくは陶芸に経文を刻むという仏教徒ぶりには驚かされる。 横山大観展に貼ってあった、「芸術には、哲学的なものや、宗教的なものも必要である」 という彼の言葉のことを思い出す。 どちらも、不足していると、芸術作品にはならないのである。 山本容子も、クリスチャンだと、図録に書いてあった。 宗派は関係ないってことなのかも。汗。 日本の宗教観というのは、(「都会の場合は」なのかもしれないがあまり表に出ない(出さないことにより、人間関係を穏便にするという工夫)ことが多いのだが、作品には出てきたほうがいいということなのか?と |
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冒頭、彼の般若心経のシリーズを全部買ったというお金持ちが出てきて、 「今までは、エロで売っていた彼が、(般若心経になり)とうとう、ホンモノになった」 などと語っていたのが印象的だった。 それにしても、いくらで買ったのかなあ。 全部っていう懐具合がなあ。 アタシも頑張ろう。笑。 その資金で、満寿夫は、満寿夫美術館の建築費を稼いだのだと思う。 作品の受け入れ方というは、本当に個人的な情報の蓄積による。 もしくは、許容範囲をどこまで広げることが出来るのかという、個々が持つ、可能性の指標でもある。 現代アートを手がけていると、皆さん、全く理解が出来ませんという顔で入って来るのである。 それが、何分かアタシの説明を聞き、すぐに受け入れられるようになる人も多い。 逆に、ちょっと作品を作ったりする人などに多いのだが、「そんなのは全く受け入れられない」キッパリ という激しい拒絶にあうこともある。 いやまあ、相手をしているアタシとしては、強い抵抗感を持つ人の方が、見ててたのしいんだけどね。 |
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でもまあ、否定の中からは何も産まれないのだ。 最低でも、「良く解らないから、一時保留」程度の受け入れ具合が、精神上ヨイかなと思う。 大観の展覧会の、「宗教的や、哲学的」な貼紙にしたって、当時はまだよく、理解ができなかった。 「哲学書」などを読んだことはないが、作家が創作に対し、持つべき哲学というのは、ぼんやりと理解できてきたのかなと思う。 大切なことは、哲学の筋を間違えないことである。 アーティストが目指す、一般的な創作志向が、必ずしも、正しい哲学の筋ではないということである。 嫌まあ、どちらでもいい。 全く哲学のかけらも感じられない作風の人がアーティスト面をしているのを見ると、ああ、ついていないなと思うだけである。 否、そうではない。 別に作家の性格がどうかということは全く重要ではない。 作られた結果が、ついていないと思われることが、作家として最もついていないことなのだ。 |
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絵が売れないという愚痴をしにくる人が、売買されている絵を全く見ていないということにも驚かされる。 そうして、もう、何年も愚痴を言い続けている。 絵が悪いということでもないのだが、足りないものがあるということなのだと思う。 ここに出てくるのが、画壇のセンセイという輩だ。 「センセイが褒めてくれた」 と、まるで子供のような無邪気さで、自分の絵が良いのだと力説を続ける。入賞作品は3000万の価値があるとか、その作品は売ってはいけないとか。そんな話をである。 |
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