◆◆◆ 1035 ★ クリスト&ジャンヌの講演会-2 ◆◆◆

 

2007.11.9

アタシが、以前、ザ・ゲート プロジェクトの番組を見たときに、書いた日記。

http://www.ojara.net/syabon2/116.html

今読んでも、自分の文才に惚れ惚れするわぁ。

そうして、講演会の前の日には、2度も、その番組を見返し、準備をする。

あの、ザ・ゲートプロジェクトの番組は、本当に感動的であり、アタシは、何度も見たものだった。

DVDに録画しておいたので、また引っ張り出して、懐かしい映像を拝見。

どうして、ゲートなのか?

何故、オレンジ色なのか?

カーテンには、プリーツが入っている。何故か?

そういった、ひとつ一つのことを考えて、講演会を聞きにいったのだが、多くの謎は、彼らの作品解説を伺っていて理解することができた。

たとえば、「直線的な美しさに気づいてから、私の作品は変化していった。」

とか、巨大な作品を短期間で作るために、布という素材は、(輸送時、小さく折りたたむことが出来て、拡げると大きくなるから)とても、表現にマッチしていた。

という話をである。

アタシの現代アートへの軌跡を辿ってみる。

オタク展に行ったのが、2005年、3月3日。

デュシャンの便器「泉」を見たのが、2005年の3月8日ごろ。

http://www.ojara.net/syabon2/106.html

その後、ザ・ゲートのプログラムを見たのが、3月16日。

この3つの展覧会(と番組)を通して、アタシは、新しいタイプの創作活動というものを理解した。

この3つの展覧会に共通するもの。共通しないもの。新しい創作は、何故作られなければならないのか?

作家の意図するところは、一体何なのか?

現代アートに関する解説を、凡人に求めてはいけない。

美術館関係者や、学芸員など、文字からしか作品を理解できない者には、ちゃんと解説ができるはずがないので、受け手まで間違った理解をしてしまうのだ。

本人の肉声、そして、過去の作品。

創作者は、そこからのみ、作品の真意を学ぶことが重要だと思う。翻訳された解説など、鵜呑みにしたら、作品などいつまで経っても作ることなど出来ないのだ。

いやあ、まだ、コーフンしていて、気持ちが浮ついている。

オジャラよ、日記など書いていないで、新作の一点でも作ったらどーだよっ。

といいながら、昨日は、実家に帰り、久しぶりに親と食事をする。

団欒というものも、大切である。

生きているウチしか、親とは団欒できないのである。

クリストさんの話は、母には退屈だったらしく、すぐに、庭に咲いている菊の花についてという話題に変更されてしまう。

まあ仕方が無い。

現代アートは、誰のものか?

常識に支配されている人の行動ほど、理解しやすいものはない。

例えば、難解だと言われる作品を、読み解こうとする。

評論家が、「最も難解な作品」と評すれば、その謎を解くと言い張る学芸員や研究者が出てくる。

そうして、その謎は、まだ解けないのだそうだ。

解く必要があるのだろうか?

作家が意図する意味がホントウに、その作品にあったのか?

そういった不毛なやりとりこそが、客観的に見て、作家の思うツボだったんじゃないのかなあ。

まだ研究してる人がいるみたいだしなあ。ムダだよなあ。

クリストさんの作品から学ぶべき部分というのは、作家としての作品の扱いである。

自分の作品を販売し、自立した形で、歴史に残る、ばかげた作品を作り、全部金を遣ってしまうというのがスゴイ。

アートというのは、実は、売れると、物凄い儲かる人が出てくる。日本でも、有名日本画家さんが、長者番付表に名前を連ねていたりもする。

それは日本に限らない。

税金で消費するよりは、ロシアの国会議事堂を包む金に回す方が、作家としては有意義なのだ。

別に、そうは説明していないだけである。

興味深いのは、2週間程度の短期間のプロジェクトのための資金を、平面作品で稼ぎ出しているというところだ。

平面しか売れないのよ。

そういうことになる。

イサムノグチであっても、番組の言葉が正しければ、「肖像画を沢山描いて、彫刻のための資金を稼いだ」という風に記憶している。

頼るべき資金源は、効率の良い平面販売ということになる。

 

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