◆◆◆ 938 ★ 陶芸家『国吉清尚』 ◆◆◆

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2007.7.2

テレビ番組を見る。

陶芸家『国吉清尚』

テレビによれば、どんなに評判がよくても、同じ作品は二度と作らなかったのだという。

その作風もどんどんと形を変えてゆき、最後には、口の無い「世紀末の卵シリーズ」という作品を作り、

その後、自分に灯油をかけて、55歳でその生涯を閉じたのだそう。

壮絶ぅぅ。

「世紀末の卵シリーズ」では、当然に、器の用を果たさない作品であったため、理解者は皆無であり、その事に物すごい不安を感じていたらしい。

精神的な不安というのは、取り去ることは難しい。

作品から湧き出てくる力というのは物すごいよね。

お友達が、国吉のことを語っていたけど、「モノを作ろうとすると、どうしても『いやらしさ』が出てきてしまうものだけれども、彼の場合、(精神の内面から湧き出てくるもののせいか)いやらしさを感じない、(ホンモノの作品である)」

という感想。

八木美術さんに図録があるはずなので、今度拝みに行こう。主の解説付きで、なかなか充実した時間。(この前、実物があったという記憶もあるよなあ。千住なので、まだ売れていないこと必至)

平三さんと同じように、彼にも、生涯を通じた創作ポリシーというのがある。

彼の場合、唯一無二という世界。

なかなかねぇ。

アタシなんて、薔薇ばかり何枚も描いちゃうもんなあ。

売り絵は描かないなどという創作意思とは大きく違うよなあ。

画家だから、売り絵も描いたほうがいいと思うけどなあ。

今度は、国吉さんの別なお友達の話

「彼の作品というのは、(どんどん買ってくださいという風に、)お客様にシッポを振った作品ではない」

のだそうだ。

お客様にシッポを振った作品かぁ。

なんか解るよなあ。(アタシが行く画廊にはないけどさ)

最近の、絵の具のチューブが貼りついた作品なんかは、明らかに、普通の絵を買いたい人が遠ざかってしまうもんねぇ。笑。

でも、そういう作品になってきちゃうんだよね。

それは、創作者なのであれば、当たり前なのである。

風景とか花とか、自宅に飾るようなインテリア絵画であれば、買う人がフツーの人だからさ、「フツーの人に、シッポを振った作品」を作らないと、売れないもんね。

でもまあ、実は、アートの市場というのは、その上にあってね、収集家は、少なくとも、「シッポ」作品に舐められたりはしない。

国吉のように、1人で、黙々と、今までこの世にはなかった新しい世界を追求するような創作活動を応援してあげよう。

という意思を持ち、買い支える。

ということになる。

シッポ作品と、収集家筋では、望まれる作品が違うってことになる。

額縁屋のオヤジ筋の作品(売り絵)は、最初から最後まで「シッポ作品」だもんなあ。

アタシとは話が食い違うワケだよね。笑。

ギャラリーがオープンしたから、久しぶりに電話しよう。

きっと、ヒマこいているに違いなく、すぐにやってくることだろう。

オシオッサさんと一緒に作っているという、彼女の影響もあると思うけど、アタシも最近は、「現代系作家」だと、キッパリ名乗れるような作品になってきたと思う。

「現代美術作品を作る作家」

であるという意識がもてるようになったというのは、私にとっての大きな進歩だと思う。

中林悟竹さんという書家の方の言葉。

「今の字は、今の人には分からぬ。百年たてば分かるだろう」

なるほどねえ。

オシオッサさんの作品も、100年後には、分かる人が出現するのかもしれないよなあ。

国吉の陶芸も、そういう、時代を先取りし、陶芸界に大きな影響を与えた作品群だと思う。

当時の人には理解できなかったし、作家本人はそのことに不安や不満があり自決ということになる。

凡人には100年先の作品より、シッポを振った作品の方に心が動く。身近に置くものなのだから、心が和む作品。それでよい。

見た人に「よく解らない」

という印象を持たれる作品になれば、それはそれで、現代作家としては一流だとアタシは思う。

そんな作品は、凡人には作れないからである。

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