◆◆◆ 866 ★ 油彩-2 ◆◆◆
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2007.3.20 |
そういう意味では、この絵だって、「内面的、叙情的表現について考えながら作りました。今までにない、新しい表現について模索しています。」 などと書いておけば、皆喜ぶぜ。 オジャラよ。作品に絵の具チューブを貼り付けるのはやめろよ。 と思いながらもね、捨てるのももったいないし、絵の具はまだ入っているしさ。汗。 内面表現が上手い作家さんというのも、存在しないわけではない。 それは、解りやすい内面表現でね、ま、筋の人が好む(よく売れる)んで、頑張って描いてます。 みたいな絵が並んじゃう。 売れた者が勝ちなの。 だから、それはそれでアリだと思うんだけどね。 全部売れちゃうからさ。 大きいのすら売れてしまい、駄作だけ売れ残っちゃって、展覧会の後の方に来た人で、どうしてもほしい人は、駄作でも買ったりしてね。 売れている作家さんの展覧会って、ホント勉強になるよなあ。 写実とか、シュール系とかと比較しても、内面表現っていうのは難しい場所にあると思う。 イロイロな絵を見てきたけど、最近は、仏像や能面にすら内面表現を感じるようになってきた。 なかなか見る眼はついてきたんだと思う。 |
ちょっとピンボケしちゃったのよね。 この作品は汚かったよなあ。 |
描いている方にしたって、そういうのを意識して作った内面表現なのか、自然に出てきた結果なのかというのは、随分と違う場所にあるような気がするよね。 それは、作為がありすぎる、素人の陶芸作品みたいなものでさ、意図して「これでもか」 と作られた絵というのは、見ていて「病んでいる」って思うことすらある。 そんな絵ばかりが賞を取っている。 (嫌まあ、画壇というのは、絵の技術の向上を目指して作られている場合があって、とりあえず、技術的にどうかっていうのを判断していると考えれば、当然の結果だとも思うのよ。ある程度、きちんと描ける技術がある。作品というのは、その先に出来てくるものだからね。でも、そこまでは、画壇は判断しないわけ。もし、誰かが判断するのであれば、それは、マーケットだけが、その先を判断しているということになる。) 美術協会の賞を取った作品だけが並んでいる展覧会というのもこの世にはあってね、それはそれで気絶しそうになった。 並んでいるだけで、もう、画壇の力量までわかってしまうからである。 そうして、その中で特賞をもらっている作品などについては、動きの微塵も感じられない技巧に満ちた作品のように見えた。 が、推薦人のコメントは、難解で、よく理解できなかった上に、静物の描写で、瞬間表現などは皆無なのに、「内面表現や、構成上の対比があり、新しい絵だ」などと評されていたのに驚いた。 推薦人の文次第では、入賞も可能ということになる。 賞を与える人に、絵を見る力が足りなければ、結局文字からの情報も考慮に入れて審査せざるを得ない。 という事なのかもしれない。(そういう賞は、イロイロな展覧会で見ることがあり、そのことを否定しているのではない。) アタシには、どうしても、推薦人の文の説明のような絵には見えなかった。 何度も、その意図を感じ取ろうと努力してみたけど、ダメだった。 上手い絵で、技術は高いとは思うけどね。 日本の画壇というのは、まだ、100年前の評価と同じ場所にあるのだと思い知った。 ま、現実というのは、その程度だということでもある。 文を頼りに作品を鑑賞する傾向が強い日本のアートマーケットの盲点なんだよね。 だから、作家も画廊も成長しないのよ。 |
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絵の具を搾り出して描画をすると、手が痛くなるので、文房堂に、絵の具の絞り器を買いに行く。 1800円もするんだぁ。 そうして、シルバーホワイトの絵の具の値段を見る。 うげっ。800円もするのかぁ。 中古品とはいえ、絵の具を物凄い安い値段で仕入れたので、どんなに厚塗りしたとしても、今までの作品の原価と変わらないんだよね。 厚塗りの絵の人気というのは高い。笑。 絵の具の質感というのが、確かにあるからである。 それにしたって、この絵も、売れないよなあ。 まあいいか。 個人的には、絵は良くなってきていると思う。 オジャラよ、それでは、岸田の手記と同じじゃないかよ。 たはは。 ま、そういう事なんだよね。 自分の手記っつーのはさ、何処までも主観的でね、客観というのは入る余地が無い。 画家を目指そうなんていう人は、所詮、自分の事しか考えていないのよ。 「自分の絵が、一番イイ」と思っているワケ。笑。 だからね、「そんな奴らの書いた記録を信じて作品鑑賞をするな」というのを言いたいの。 絵を見て何らかを語るのであれば、自分でその絵の判断が出来るような力を持たなければならないということになり、美術館や評論家、作家の書いた文を信用するな。 ということである。 しゃぼんだまあおいそらは、勉強になるね。笑。(→ここでも自画自賛) |
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そういえば、この前、写真家の篠山紀信さんが、マンレイのあとりえを訪れた時の話をされていた。 要点は3つ。 ●あとりえ全部が作品という感じ。たとえば、灰皿なんかにも、自分で加筆した絵が描かれていて、それが作品になっている。生活空間が、全てアートであった。そういう所で作っているから、何もかもがアートなのだろうと思わされた ●従来は、見たままをそのまま撮影するという写真の世界を、「写真には独自の表現があるものだ。というところに果敢に挑戦し、表現を拡大した人である。そういう自由さというのは、僕らももっと学ばなくてはならない。 ●(写真の独自の世界/現像方法とか、そういう技術的な部分も含めて)そのまま撮影した写真よりも、意味(陰影・フォルム輪郭など)が強くなり、被写体の性格まではっきりと出てくる。新しい技法を見つけたら、(そのあと、試行錯誤を繰り返し最後には、)誰が見ても納得するような、一種の芸術的表現の高みにまで持っていってしまう。 その辺の力量というのは、たいへんなものであると思います。 と語られていた。 さすが、一流の作家さんが見ているところというのは、筋が通っている。 |
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