◆◆◆ 823 ★ 展覧会のまとめ ◆◆◆
2006.12.26 |
今年は、あまり行けなかったけど、それでも、フツーの人よりは行っていると思う。 絹谷先生や、ニキッドサンファルの展覧会には、本当に心が励まされた。 強烈な色彩や、作品から溢れ出てくるパワーに触れ、一つの確信を得た。 自分の絵の色を濁らせて、画廊や収集家が好む絵を描こうなんていう意思では三流の作家にしかなれないということである。 私には、色彩がある。 自分の好きな色で、好きなモノを表現すればよい。 それが作家というものであり、その心というものは、見る側に必ず伝わるはずなのである。 額縁屋のオヤジの助言が間違っていたとは思わない。 私のアトリエを訪ねてくる画家の方々も、皆さん画廊がイロイロとこういう絵にしてくれとか言って来るのが嫌だ(まだ言われたこともないのにだよ。笑)とかいう話で盛り上がることがある。 アタシが類推するに、その絵にはまだ足りないところがあるからだと思う。 もし、作品がホントウによければ、画廊だってそんなこと言ったりしないはずなのよ。池田満寿夫や、駒井哲郎に、画廊が助言を与えただろうか? ムラカミタカシやナラヨシトモに、助言を与えると思う?まあ、そういう話になる。 助言を与えてもらえるというのは、まだ自分の作品が良くなる可能性があるってことで、それはそれで、感謝して聞いておけばいいと思うけどなあ。笑。 |
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画廊なんかを回っていて思うのは、たいしたことない作品でも、作家の知名度だけで売ってる所が多いってとこかなあ。 買うほうも素人なんだろうとかさ。笑。 金はあるし、人には自慢したいし、収集家だしみたいな人は、そういう筋で買うし、ホントウの収集家であれば、それなりの筋で、安くてヨイ品を大量に漁っている。 まあ、そういうことのよう。 外見からは全く解らないけど、2-3年小品を買うだけで、そういうコトまで解るのであれば、画家志望の皆様にも、収集をオススメするけどなあ。 アート業界には、これから、新しい時代が来るのかもしれない。 そんな中でも、飾るのであれば、三岸の作品のような、華やかで完成度のシッカリとした花の作品とか、マツダショウヘイセンセイの明るくて気の抜けた自由な絵はいいなと思う。 もしくは、フジタとか、満寿夫のような、洗練された美しく、誰が見てもお高くて自慢になる作品にしたい。 片岡球子の絵もいいよなあ。高いから来年模写しよう。 という世界。人気がある画家には、それなりの理由があるということになる。知名度もあるけど、結果もいいということに他ならず、しかも、イロイロなサイズの作品(版画なども)が大量にあるので、買うほうにしても、ご予算に併せて選べて嬉しいという構造。 |
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展覧会というのは、開けばヨイというものではない。 金をかければヨイということでもなく、有名画廊でなければならないということもない。 とりあえず、来た人が楽しめるのかどうか。 ここが最も大切なのである。 自己満足の展覧会ではいけない。 ヨイ絵でなければいけない。 電車賃を払い、忙しい時間を割いて行くわけだから、少なくとも、行ってヨカッタとか、楽しかったとか、作家の頑張りを感じられたとか、安いから買ってしまったとか。 行った人にプラスアルファーがなければならないと思うわけなのよ。 伊藤豊雄センセイの建築の展覧会には、本当に驚かされた。模型の周囲をグルグルと周り、あるいは、建物の中に座る。 もしくは、工事中の躯体の再現の前に立ちすくむ、その不思議な構造を探る為に、図面を何時間も見続ける。 腕組して唸るもの、目をキラキラさせるもの、口をポカンと開けて唖然とするもの。 こんなに表情豊かな、若い人たちを巻き込む展覧会というのははじめてみた。 アタシは、展覧会へは、展示品ばかりでなく、鑑賞者も見に行っている。誰が、どうやってこの展覧会に来たのかを見ているのである。 大竹伸朗さんの展覧会にも、若い人が沢山きていたけどね。あとは、画廊筋と、収集筋。(見ただけでどちらなのかも解るのよ)笑。 伊藤さんの所には、若い建築家が集っていたということになる。 |
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絵の展覧会では、こんなに楽しいということは有り得ない。図面や模型のその奥にある、建築物の壮大さ、自由さというもの。 こういう作品も、いつか自分も手がけたいという夢も育つ展覧会だということである。 おたく展のときも思ったけど、自分の作った作品の展示というありきたりなものではなく、「伝えたいコトが、伝えたい人に明確になっていて、それをきちんと伝えられる展覧会」だったということになる。だから、ヨイ展覧会だったという感想なのだ。 学校だって、そういう所でなくてはならない。 私が大学で恩師と出会い最も感謝していることは、勉強する楽しさを教えてくださったという所である。 新聞を読み、情報を集め、自分なりの考え方を身につけ、それを社会に還元してゆく。 勉強するということは、そういう作業に他ならず、その楽しさを学べた私は、大学に行って、本当にヨカッタと思うのである。 もし、目的がシッカリとしていれば、多少の人間関係のゴタゴタも乗り切れるはずなのだ。 いじめを無くそうなどという、全くムリな話をしていても仕方が無い。学校で学ぶべきことは、勉強の方法や、学んだことをどう活かすかということでなくてはならない。 人間関係というのは、些細なことで揉めるものなのだ。そういう時に、どう解決してゆくのか。どこで折り合い、どこで謝るのか。 どうすれば嫌われてしまい、どうやってそれを乗り越えるのか。そういうことを学ぶ場所にならなければならない。 会社内のイジメなど、学校のイジメの比ではない程辛いものなのである。 |
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