◆◆◆ 816 ★ 最も影響を受けた作家 ◆◆◆

2006.12.11

ここ何年かで、私に最も影響を与えた作家は誰かと聞かれたら、やっぱ、河井寛次郎と答えると思う。

その辺が、皆さん不思議に思われるかもしれない。

彼は、陶芸家だし、アタシは、画家志望。

ジャンル以外の人が、一体、アタシにどんな影響を与えたのか?

去年ぐらいから、陶芸や書も見るようになった。

何故見るのかといえば、「創作」するという部分に於いて共通であり、何をどう表現するのか?という創作者としての根本を学ぶ為である。

どんな創作ジャンルであっても、ゴールはあまり違わない。

そのゴールを何としているのか?

その謎の答えを導き出すために、私はイロイロな展覧会に足を運ぶことにした。

そうして、素直に一番楽しい場であるのは、活け花の展覧会である。花にはいつも心が癒され、近くにいる鑑賞者のコメントは笑える。

家元の花には感激し、新しい感性に触れることも出来る。教わる者と教える者の差は歴然であり、この差に気づかなければ、いつまでも教える者にはなれないということになる。そういった、社会の構造が凝縮されている展覧会だと思う。

一番ついていないと思うのは、書の展覧会である。

客の入りは悪いし、行っても、展示品は読めない。

読めたとしたって、人の歌の歌詞だとか、万葉の詩だとか、有名人の詩を写したものだったりもする。

評価するポイントは、何が書かれているのかというよりは、書の縦筋が通っているのかとか、心が行き届いている書なのかという所になる。

文字数が多いと、人間の集中力が途切れ、書というのは乱れてくる。その、人間の弱みとの戦いが書ということになる。

しかも、文字からは開放されないのである。

展覧会がつまらないから、足を運ぶ人もいない。

という悪循環。

が、習っている人は多いので、展覧会は成立する。

という構造があり、書のグループ展などに於いては、皆で金を出して立派な図録までプレゼントされることもある。

金は持っているということのようで、世の中とは奥深い。

全ての書が悪いと言っているワケではない。

見れる書もある。それはほんの僅かであり、そういう書であっても、山頭火の俳句だったりする。

書というのは、文字を写すというところから、離れてはいけない。そういう活動だということになる。

何故なら、文の評価というのが、書を教える側には出来ないからということになる。

あいだみつをの書がスゴイというのは、この、「他人の文を写す」という創作から離れて、「自分の文を読める書にする」という新しい分野を確立したというところにある。

そうして、その文字の中に引き込まれている自分に気づくのである。なんて力強い文字なんだろう。

時々行く、イロイロな人の作品が集まっている展覧会なんかに、河井の作品が混じっていることがある。

その力強さに心が動かされ、誰が作ったのかというのを見ると、河井寛次郎だったりする。

もしくは、一目見て、河井の作品だという確信に至る。

陶芸のような、誰が作っても似たような作品に偏りがちな世界で、私のような素人が、見た目で河井の作品を見分けられるほど、特徴があるということになる。

その特徴という中には、普遍や、用の美を兼ね備えそれでもって、個性もあるのであるから、全く頭が上がらない。

沢山見ていると解るのだが、どんなに張り切って作っても、自分の世界というのを持てる作家というのは少ないのである。

そうして、自分の世界を持ちながらも、新しいことにもチャレンジし続けた創作者。

それが、後になって、「芸術家」と呼ばれている

という共通項を見出すに至る。結果が全てということになり、思いの他解り易い。

ただし、河井の事を知らなかったのであれば、私は、この事に気づくのがもっと遅れていたと思うのである。

例えば、油彩にばかりこだわっていると、どうしても結果が油彩になってしまうのだ。笑。

平面から開放されることはない。

平面に固執すると、あとは、技法の話になってゆく。

独自の技法を持つというのは、絵に何か(油彩の材料以外の)混ぜ物をしたり、絵の内容が、強烈だったり、心が痛んだり、とまあそういう話になる。

それが、悪いということではない。

ただ、飾りたく無い絵になっている人ばかり見かけると、病んでるよなあと思わないわけにはゆかない。

それは、画壇の傾向というのが諸悪の根源であり、審査員の絵も売れていないのだから、選ばれた人の絵も売れるはずがない。

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