◆◆◆ 759 ★ 藝大公開講座五日目 ◆◆◆

2006.8.5

早いもので、8回あるうちの、公開講座の5回目となってしまう。

遅刻もせず、皆勤というのは、銅板画教室と比較すると、別人のような参加姿勢。

今日は、乾燥の進んだ像をヤスリで磨いたり、少し彫刻を進めたりという作業。

大量に新作を作って持参したのだが、輸送途中で大破する像が続出し、精神的にも凹む。

朝、国立博物館の前で、石を拾う。

それは、乾燥した粘土を磨く為の石で、ツルリとした肌の黒い石が選ばれる。

乾燥した粘土は、石で結構強めに磨いて、光らせてゆくのであるが、作業途中で、左下の像は足がもげ、中央の女性は頭が転げ落ちるという大惨事。

芸術活動は、破損との戦いである。

あれだよなあ。意図的に破壊と構築を繰り返すという作業に、似ているよなあ。

が、ここには大きな違いがあるんだよね。

製作工程で意図していない状態に壊れてしまう。

これは、技術や慎重さの欠落ということになる。

逆に、意図して壊すという作業。

(これは、巨匠に見られる共通的作業であり、芸術作品を評価する上での重要ポイントとアタシは考えている)

自分で作り上げた作品を意図して壊せる人はあまりいない。

陶芸をしているA氏(この講座参加)は、「便器から離れたらどうだ?僕は作ることは有り得ない」などとアタシに言って来る。

彼には、「デュシャンの凄さ」が解っていないのだ。

まあ、この一言だけで、そういう評価になる。

別に解ることは大切ではない。世の中のほとんどは彼の便器には否定的だし、それが常識というものだ。

ただ、創作者なのにもかかわらず、解ろうとしない気持ちが強いというのは、最大の不幸だということになる。

何故、現代アーティストに、ピカソのアビニィオンの娘以上に、デュシャンの「泉」が影響を与えたのか?

何をどんな風に与えたのか?

それは、作品を鑑賞するだけでは解らない。

少なくとも、その理由を考えた人だけに、その謎を解くチャンスが訪れる。

考えたからといって、真意を理解できる人は僅かだと思う。

でも、理解できた人は、次の段階に進むことができる。

例えば、オシオッサさんのようになれるということになる。

作品鑑賞を続けてゆくと、実は、美術館級の作家さんの凄さの共通項に気づきはじめる。

キュレーターはそれを見逃さないということになる。

(作品にもよるのよ。どんな作家さんだって、全てがツブが揃って芸術だという場合は少ないわけよ)

ま、凄いという作品は、1点あればヨイということもないわけではない。

1つの展覧会に展示されている200点の展示品から、優れた一点を見分ける力がついてきたということになる。

でもまあ、陶芸の展覧会は本当に辛い世界だと思う。

書よりはマシだけどさぁ。

器に着目すれば、フォルムが進みすぎると、器の用を足さなくなってしまう。

器でもなく、オブジェとも思えない作品が陶芸展に並んでいると、並ぶ場所が間違っているのではないかと思ったり、そういうのを見た作家さんが、創作に迷ったりするんじゃないかとも思う。

そこが、平面とは違うところである。

器から離れてしまった作品は、オブジェでもないワケで、抽象画と同じように、売れたりはしない。

実際に作ってみれば、「自分でも出来そう」というのと、「この域はムリ」というのがハッキリとあるはずなのだが、作っている数が足りない人ほどそのラインがあいまいで、自分に甘くできている。

「あの程度なら描けそうだ」などと思い上がり、人と似たような絵ばかり描いている人のことが思い浮かんでくる。

そういう傾向がある人の多くが、優れた作品の優れた点を理解しようとしない。ましてや、自分の作品と比較して、自分の作品が著しく劣るということに気づくこともできない場合すらある。

だから、アタシは、デュシャンのことを否定されても、ヘラヘラと笑っている。理解する気のないひとと議論するのは時間のムダというものだ。

この、価値観のズレの大きさを楽しむことが現代アートの醍醐味であり、こちら側は、「この作品そのものには意味は無い」などと、お決まりのセリフを言っておけば、丸く収まるのである。

でも、若い作家さんで、そのことをもっと知りたいと粘ってくる人がいる。そういう人たちには、アタシは理解できるように教えてあげたりもする。結構イイ人だからである。

日本には、現代アートをきちんと説明できる人が少ない。

自分の作品の足りない部分に、自分で気づけなければ、作品は成長しないし、破壊もしないだろうし、新しいことにチャレンジしようともしない。

大切なのは、新しい事にチャレンジしようとしているのかどうか?という一点であり、そのことは、作品作りから勝手に伝わってくる。

そういう作品など、あまり見たことが無い。

だから、そういうモノが感じられる作品というのはスゴイ。

まあ、そういうことになる。

見る力がある人は、それを見間違えないのである。

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