◆◆◆ 756 ★ イラストレーション・コンペティションの審査 ◆◆◆

2006.7.19

忙しくて書くのを忘れていたのだが、個展終了後に、物凄い大イベントがあった。

それは、オジャラが、イラストレーション協会が開いた公募の審査を行うという、人生最大の出来事である。

理事というのにも恐縮するのに、公募展の審査とはねぇ。理事長さんも怖いもの知らずだぜ。

絵を描く方はともかく、見る力はあると思われているということに他ならない。(全く違う能力である)

個人的には、「審査料」なる日当が出るという話で、金に困っていたアタシは、ギャラに目がくらんで引き受けてしまう。

はぁ。

身に余る大役だったよなあ。

だいたい、アタシより絵が巧い人の審査をしろというのがね。

こちらにしてみれば、力作を沢山拝見させていただき、勉強するヨイチャンスではあった。

協会事務所には、イラストレーターを目指す人とか、バリバリと現役でイラストのお仕事で働いている方などの、本当に素晴らしい作品が500余点程並ぶ。

一つ一つ、それらを見てゆき、よさげな作品をピックアップ。

その後、更に、賞に価する作品を選び抜くという作業である。

1000枚くらいの絵なら、一日で見ることもあるのだが賞を選んだり、入選を選んだりするというのははじめて。

どの作品にも夢が詰まっていて、心が引き締まる。

それでも、賞となると、必然的に絞られてくるもので驚かされる。

よくよく見ると、選択肢というのはそんなにはない。

作品というのは、作ればヨイというものではなく、見た人の心を動かさなければならないということである。

見るほうは目が肥えているから、心など、そうそう動かされはしない。

見る側を「あっ」と言わせる作品が作れる人はそんなにはいないのである。

技法の話ではなく、オリジナリティ、作品に潜むメッセージ性とか、どの瞬間を切り取るのかという表現力、構成、色、全体の完成度、まあそういうイロイロな条件を満たしている作品というのが、いくつかはあるということである。

自分が作れるのかどうかというのは全く別な話であり、少なくとも、そういう作品というのが解るというレベルにまで、情報の量が増えてきたということになる。

作品の力というのは、技術だけではない。

そうして、絵の番組を繰り返し見ては、どの番組にも「独自の世界」だとか、メッセージ性だとか、その類の共通ワードがいくつも出てきているというのに、描く側はどうしてそのことに気づかないんだろうと思うことも多い。

単純に、見ている量が足りないんだと思う。

ある程度の事が理解できてくると、創作活動というのは、もっとアトラクティブに進化してゆく。

何もかもから自由になりたいと思ったり、創作そのものを放棄したりもする。

裸婦というのに躍動感を与えるのは難しい。

それは、被写体が動いていないからである。

ヨーロッパの絵画に女神などがよく登場するのは、動きを表現するためなのだろうと合点がゆく。

クロッキーを繰り返し描いているからといって、満足してはいけない。

もちろん、それもやらないと描く量が不足するので、それはそれでやって、更に、スポーツ選手やダンサーなどの動きのある作品にもチャレンジしなければならないということである。

よく、フラメンコなんかの絵を公募展でも見かけるけど、まあ、裸婦がある程度描けるようになったら、そっち方向に進むというのは理解できる。

裸婦がちゃんと描けないと、フラメンコは物凄く下手糞になるので、結局ボロクソに言われてしまうんだけどさ。

公募展を見ている人の会話ほど自由なものはないと思うことは多い。

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