◆◆◆ 701 ★ 藤田嗣治-2 ◆◆◆
2006.5.18 |
フジタの番組では、乳白色の肌の謎というのも解明してくれた。 剥離した絵の具の原料を分析すると、 まず、カンバスにニカワを薄く塗る。 そのあと、硫酸バリウムを塗り、 今度は、鉛白と炭酸カルシウムをオイルで溶いた品を、1-3で混ぜ合わせる。 この3工程の下塗りをカンバスに施し、油絵の具を薄く塗り重ねることで、あのような肌色を出したのだという。 なるほどねぇ。 オリジナリティーを手に入れた画家の多くは、絵の具などの調合も、独自に行っている場合が多い。 例えば、梅原にしたって、日本画の絵の具を油彩に取り入れて、物凄い透明感のある作品を作っている。 アタシが一番知りたかったのは、藤田の作品の、黒い線が、一体どんな画材だったのかということである。 彼の作品は、今まででも何枚かは見たことがあったが、 たぶん、筆で書いているのだろうということ以外、よく解らなかった。まさか、墨を使っていたというのには驚かされた。 油彩の画面で、墨というのは、きちんと定着するものなのだろうか?もしくは、墨に何か混ぜているのではないか? まあ、そういう疑問が残る。あとは、自分で試してみるということだけしか、確認する方法がない。 あーたね、例えば、白い肌のマチエールと、墨で線を作るという技法を知ったからといって、同じ方法で描いたりしたら、それは、タダのパクリというわけで、誰にも評価されないわけよ。その辺、勘違いしないでね。 目指すべき場所は、独自の世界を自ら作り上げる。 ただ1点である。 それにね、あの線は、真似をしようとしても、誰にも真似のできない域であり、その美しさには、ホントウに驚かされる。 |
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フジタは、一旦は完成したように思えた、墨で輪郭線を取る、格調高い人物画を捨て、面と面で織り成す、通常の油彩技法に入ってゆく。 アタシも、実は、ときどき試行錯誤をしているのだけど、この方法だと、オリジナリティーというのが出辛いのよね。 どの人が書いても、同じような絵の完成度なのよ。 でもまあ、いくつも作り続けるというのは、理解できる。 ありきたりな方法であっても、自分の世界というのが作れるはずだという仮定に基づく、実証だからである。 優れた作家というのは、自分の現実に満足することなく、新しい方法にチャレンジし、より多くの技術を身につけ、更なる新作に、それを昇華させてゆく。 どの技術であっても、知らないよりは、知っていたほうがよく、全く新しい技法(フレスコ画など)に入ったときも、その技術力が、生かされたのだとアタシは思っている。 |
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油彩(絵画)の技法というのは、被写体を、面と面だけで作り上げるか、面と面の間を線で区切るのかのどちらかの表現しかない。 その混合タイプというのもあるけれども、ほとんどの場合、どちらかか、混合で構成されているのである。 これさえ解ってしまえば、それ以外の方法を開発するとか、その方法の中に、独自性(絵の具に他のものを混ぜるとか、他の人が使っていない材料で試してみる)を加えてゆくということで、ある程度のオリジナリティーは作れていくということになる。 でも、一番大切なのは、技術ではなく、何を描くかである。 |
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藤田は晩年クリスチャンに改宗。 レオナルド・ダビンチにあやかって、レオナールフジタと名乗る。 日本人を捨てたのである。 彼は、「改宗して、少しフランス人に近づけた気がする」と語っていた。 「近づけた気がする」という表現に、彼の孤独を垣間見る。 外国に住んだことのないアナタには解らないだろうが、異国にいれば、表面上戸籍だとか、宗教を例えば現地の人に合わせたとしても、永遠に外人なのである。 毎日、日本食を食べ、和の空間の中で生きた藤田は、日本人以外の何者でもなく、もし、不満があったのだとすれば、それは、「日本人の芸術を理解する力が著しく不足していたということ」にだと思う。 「パリという美術中心の都では、良い批評家は認めてくれ、これ以上の理想郷はない。美術家に国境はなく世界に通じるものであってもよく、絵画はもっと広い意味のものだ。」 自分の作品を理解してくれる人がいないという孤独が、日本を捨て去った原因なのだと思う。 今になって、理解しても、彼は、もう日本に帰ってきたりはしない。世界中に散り散りになった彼の絵は、外国で今も大切にされている。 |
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