◆◆◆ 656 ★ デザインするということ ◆◆◆

2006.3.18

電車の中で、ドローイングを繰り返す。

隣で、こんな絵を描かれたのでは、座っている人もビックリである。

長谷川潔を見に行った後ということもあり、叙情的、内面的表現にスポットを当ててみる。笑。

オジャラよ。解っていないのであれば、ムリをするな。

内面的とか、叙情的とかいうのは、いつまでたっても理解出来ないぜ。汗。

とりあえず、鳥と、魚を花に組み合わせるという、物理的な手法を取り入れる。(パクリっす。)

魚だと、いかにもという風になってしまうので、カエルを入れる。

おおっ。

この絵は、間違いなく、オジャラの絵でございます。笑。

「サラサラ描ける」という謳い文句が描いてあったコンビニボールペンだったため、色塗りに疲れて途中までしか塗らなかった。

まあ、これもアリだろう。

ボールペン会社のウソつきっ。

というように、試行錯誤は続く。

そもそも、愛用のボールペンのカートリッジが、横浜あたりでなくなってしまうから、そういうことになるんじゃないかよっ。

デザインすると、まあこんな感じ。

パっとしないけどなあ。

まあ、ご依頼頂くとすれば、さすがに電車の中で描いた絵は使わないし、罫にも、もうちょっと手を入れると思うよ。笑。

そう、いくらでも、無尽蔵に作れてしまうのだ。

そうして、イラストは何分かで一枚が完成し、左程度のグラフィック加工したとしても5分くらいなんだよね。

やっぱ、15万円というのは取りすぎだよなあ。

まあいいか。

払いたいという人もいないのだから、取らぬ狸のナントカである。

もう少し、この筋の作品を作りためて、力をつけたいと思う。

デザイン力というのは、やっぱ、情報の量と比例しているなと思う。

竹久夢二の画集や、ミュシャの画集を何度も見ているのだが、全く及ばない。

力の差というのは、残酷なものであり、力のないものは、受け入れるだけである。

そうして、そういう中から、手に入れようという意思を持ち、何がしかの努力をした人だけが、手に入れられる世界があるということになる。

努力したからといって、手に入れられるとは限らない。

そういうところが、残酷だと思うのだ。

この日の展覧会は4つ程回ったため、それぞれの絵が中に入り込んできて困る。

この、「そーいうこと?」

というのは、とある現代アートを見た後で、彼のドローイングに、メモ書きのような文字が書かれているのが入ってきてしまった。

ほっぺには、リーウーファン、鳥は、長谷川潔。とまあ、こういう話なのよ。

イロイロな人の絵がコラボになっているというか、自分の中から抜け出ないというか、まあいいか。

これはこれで、カワイイし、文字を入れるスペースもあるし。

罫は、練習をはじめたばかりなので、描き進めば、もっと洗練されたデザインを作れるようになる予定。頑張るわ。

うーむ。この作品を見せられたのでは、デザインの仕事は来ないよなあ。たはは。

もう少し、気合を入れて、サンプル作品をつくることにしないと。

ま、ラフなんでね、実際は、これを元に、本画に仕立て直すって作業をするってことなのよ。

長谷川潔さんなんかは、下絵もバッチリとの残っていて、しかも、同じ絵が何枚もあった。

まあ、良い絵というのは、そうやって作られるのだと思う。トレペ多様。

そうだよねぇ。

あんなに格調高い絵というのは、そうやって、時間をかけて作られた作品なんだよねぇ。

オジャラよ。目指すべき場所を間違えるな。

アナタの作品に、誰も格調高さを望んでなどいない。

格調高くなくともよい。

私の場合、安心できたり、ホッとできたり、笑えたり、動きがあったりする絵を目指すべきなのよ。

それが、作画方針であり、作家の芸術性を司る重要な部分である。

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