◆◆◆ 652 ★ 今井 繁三郎-3 ◆◆◆

2006.3.10

この話が、まだ続くのかと、アナタはウンザリするかもしれない。

でもまあ、もう一つだけ、書きたいことがある。

それは、番組途中に出てきた、彼の知人が所有している絵に関してであった。

今井は、地元では「合山の画家」などと、呼ばれていたのだそうだ。彼は、合山の作品も沢山残しているらしい。

額縁屋のオヤジが、買い叩いて仕入れていたような、魂の抜け出た絵に見えた。

急いで描いた、インテリア用の売り絵のような絵である。

それでも、求める人は、そんな絵しか買ってくれないのだという事実が、そこにはあった。

風景画を除けば、番組から流れてきた作品は、どの絵も色彩豊かで、やわらかく、こんな絵は、一生描けないだろうという絵ばかりであったのに、「ホントウの彼の絵」は、売れることはあまりなかったのだということだ。

フツーの人には、風景画しか売れない。

まあ、そういう話になる。

それは、アタシも、薔薇とか百合しか売れないというのと同じ話である。

世の中のニーズというのは、せいぜい、風景画とか、薔薇止まり。

日本の場合には、肖像画というニーズも皆無であり、結局画家は、買われる売り絵を描いて、生計を立てるしか無いという話になる。

とある人と、この、評論家センセイの話で盛り上がる。

匿名希望「雑誌の編集長のクセに、美術雑誌の評論家だなんて、今、話題になってますよ。ったく。」

オジャラ「でもまあ、いい解説でしたよ。買う側の本質をキチっと伝えていましたからね。見る力は確かですよ。」

匿名「はい。それはそうですよ。」

オジャラ「私は、ビデオに撮って、彼が言いたかった事を、随分とメモしました。参考になりました」

匿名「見る力と、雑誌方針というのは、違う話ですからねえ。どの雑誌も大変ですからね。でもまあ、あの雑誌は、作家が読む雑誌で、収集家は見ませんからねぇ。笑」

オジャラ「同意っす。あの本見てると、絵が売れなくなるので、アタシは、イラストレーション(の作家さんがだーっと出ているファイル)を読むようにしています。」

匿名「絵が売れなくなるっていうのは、笑えますね。(そんなことを言う画家ははじめてみたが、同意という顔)」

オジャラ「実際に、金になっている絵こそ、研究するべきなんですよ。それが、ディズニーであっても、さくらももこであってもです。」

匿名「そうなのかもしれませんね」

という会話。

画家の人生というのは、画壇に入り、作品を発表し、賞を取る。

というような筋書きだと信じている人が多い。

人の心を捉える作品作りというのは、実際に、人の心を捉えている作品からしか学べないのである。

オジャラ「画壇が絵を売ってくれるワケではありません。絵の話だけでいえば、自分で売るのか、売ってくれる画廊と、共存するのかどちらかしかありませんよね。それでも、生活が出来るレベルには及ばない人ばかりじゃないですか。そんな話(絵を売る話)とは、スッパリと決別して、デザインやイラストの収益で生計を立てることが出来れば、職業としては、その方が正しいんですよ。そういう勉強も画家はして、作品の幅を広げないと、いつまでも貧乏なままだし、絵も成長しないんです。」

逆を言えば、自分の絵画作品をグラフィックのデザインまで広げられた、佐野繁次郎とか、竹久夢二なんかは、結果的に、他の絵も売れるようになってきたという実態がある。

あれだよなあ、画廊の人も、美術雑誌の人も、キチっと、芸術性を判断できるし、画廊の方は、売れる絵も解っているという事実があるのに、作家は、何故、そういう絵を描かないんだろうなぁ。

どうしてだと思う?

そこなんだよね。

描かないんじゃなくて、売れる絵のことをキチんと理解できていないということになる。だから、描くまでに及ばない。理解できれば、手に入れられる人は増えてくると思うんだけどね。

今井繁三郎が、心の支えにしたという、竹久夢二の言葉を思い出す。

「芸術家はもう沢山だ。ホントに人間として、人間の悲しみを知る画家が出てもいいと思う」

今井は、この言葉から、「プロの画家が気づかない、情感や悲哀を大切にした絵を描こう」と決意。

絵の方向性が、人間の内面表現に向けられていったということのようである。

内面表現ねぇ。

まだよく解らないが、いつか解る日が来るかもしれない。

不忍画廊さんに行ったときに、アライさんに、くだんの美術雑誌を見せていただく。

そんでもって、自分の画廊の記事の横に載っている別な新鋭作家さんの話になる。

アライ「ああ、この人も、この人も、ウチ(で扱ってくれと、売り込み)に来たんですよ。」

オジャラ「ふーん。どーして、扱わなかったんですか?」

この後の会話はヒミツ。

画廊には、画廊の筋というのがあり、ウチで売れるという作品しか置かないというのは、まあ、どんな店でも同じ話だと思う。それは、絵に限らない。

グラフィックやイラストの仕事が増やせて、バイトも続ければ、もう絵を売る必要がなくなるもんね。

大きい絵を描くという必要もなくなるしね。

個人的には、何枚かは描きたいけどなあ。

そのあとの飾り先とかが全く未定だからなぁ。

あとは、邪魔という言葉だけが残る。

画家は、一体、何を目指して絵を描けばよいのか?

今井繁三郎の絵は、どこまでも伸びやかで美しかったのに、結局売れないで、結果的には、バラバラにならずに、子供たちが作ってくれた自分の美術館に、その作品たちは、収蔵されたということだ。

どちらが画家にとって、幸せなのかは解らない。

自分の作品を、美術館にして守ってくれる子孫がいた画家が幸せという話になるのであろうか?

日本の美術界は、明らかに、そういう時代に入ってきているようにも思う。

三岸節子や、あいだみつをでさえ、そういう、作品を引き継いだ二世・三世が、作品を世に出し続けて、絵の価値を下げずにいるという実態もある。

でも、間違っていないのは、優れた作品が先に存在する。

これだけは確かである。

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