◆◆◆ 633 ★ 生け花 古流展 ◆◆◆

2006.1.8

アナタは、何故、アタシが生け花の展覧会に行くのか、不思議に思うかもしれない。

別に、生け花に興味があるということではない。

アタシが興味があるのは、客の入りである。

初日ということは知らなかった。

バイトの前に、銀座松屋の展示会場へ。

うっひょー。ウソみたいな人の入り。

結構広い会場なのだが、そこは、総井戸端会議場と化していた。

アタシは、早速生け花展の分析に入る。

確か、去年は、池坊(草月だったような気もする)の展覧会に行ったという記憶。

そのときも、こんなには入っていなかったけどなあ。初日じゃなかったからかもしれないけど。

生け花の特徴は、買ってきた花器に、買ってきた花を活ける。

ということである。

であるからして、何の花を買い、どんな花器にどう活けるか。

という、解りやすい創作活動である。

竜さん曰く、「アタシは、あんなにはお金をかけられないわ。」という世界。

要するに、金次第で、いくらでも豪華にできるという、超資本主義的展覧会ということになる。

この筋は、茶道にも通ずるよね。

お客様をおもてなしするために、精一杯のお道具でお迎えする。

まあ、この、「精一杯」という家元の表現の中には、「お高い品であればあるほどヨイ」というのが省略されており、しかも、「わび・さび」などの、華美を軽蔑するような口調の中に、微妙な価格設定が潜んでいるという構造である。

人間の心理の裏から、虚栄心をつつく、古物商の影がチラホラ。

もし、商売人なのであれば、同じ品を、より高く売った人が勝ちである。

とりあえず、家元の部屋という展示場所に行く。

古流展は、「現代華」のコーナーと、「古流」のコーナーにキッパリと分けられていて、同じ会場に共存するという、自由な雰囲気が感じられた。

そうして、「現代華」の中には、「ウッヒョー」あり、「グロテスク」あり、「こんなものいらない」、「巨大で金がかかっているだけ」「何がなんだか解りません」が混在し、アートの世界と共通するものがあり笑えた。

それでも、現代華の一部のセンセイ方は、明らかに、現代アートを理解していて、それを作品に取り入れている。

ある種の芸術性があるということであり、流石家元。という評価。

この、現代アート的な芸術性に気づき、自分でも作品に取り入れられるか?というのが、芸術作品かどうか、しいては、人を集めることができるのか、カリスマになれるのかどうかを決定づける。

多くの人は、気づくこともなく、生徒のまま一生を終えるということになる。

そのあと、(たぶん)お弟子さんの作品を見て回る。

よい作品も無いわけではない。

肝心なことは、「家元」は、よい作品を、見間違わないということである。

であるからして、金の係り具合で、エコひいきをしたりはしない。

どんなにお花や、花器に金がかかっていたとしたって、どんなに付け届けをもらったとしたって、ホントウの才能と、金払いの良さは別の場所にあるということを理解できる能力。

そういう能力が、結果的に家元になれるということである。

それは、画壇や書の審査員と同じ場所にある。

入選と入賞とは、全く違う結果だということだ。

そうして、どうして14人も家元がいるんだろうとか、(会が違うということに気づかなかったので)お弟子さんの名前には、みんな「理」という文字がつくなとか、わけのわからない共通項が、解りやすく設定されているということに気づくのであった。

ある意味、アタシの本名には、「理」という文字が使われているので、古流に入門すると、素で役員みたいな名前になっているということである。笑。お得だわあ。(入りません。キッパリ。)

そうして、この名前(文字)をセンセイから頂くのに、一体いくら払ったんだろうと、知りたい気持ちでイッパイになるのであった。

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