◆◆◆ 628 ★ ZAIM ◆◆◆

2006.1.6

そのあと、日本大大通り駅近くにある、旧財務省のビルで行われている展覧会に流れる。

芸大の最先端表現課という人たちの卒業展である。

現代アート、特に、先端表現と呼ばれている人たちのアタマの中は、普通の人には理解できない。

解りやすく説明すると、「誰もやったことのない発想で作品を作れ」などと教えられるため、誰にも想像が及ばない作品を作るというのが製作目的になる。

であるからして、鑑賞するアナタは、「なんじゃこりゃ、」とか、「今までに見たことが無い」とか、「よく(存在の)趣旨が解らない」、「こんなものいらない」などという感想を持ったとしたら、アナタの負けということになる。

まあ、展覧会が、ジャンケン会場だとする。

相手の展示を見に、アナタが部屋に入る。そうすると、「何じゃこりゃ。よく解らん」

と思った瞬間、アナタは、ジャンケンに負けたということである。

それは、創作者の、「見る側を驚かせよう」とか、「困惑させよう」という意図に、まんまと引っかかったということになり、勝敗としては負けだということだ。

理解が進み、アナタは作品に、負けまいと、知識をつけて、作品を見たとする。

そうすると、「ふーん、この程度か。」とか、「この作品は、見たことが無いから、まあ、許す」とか、「おっ、こいつはオモシレー」などという評価に進化する。

だけどね、一つだけいえることはね、アナタにその発想が持てるかどうかというのとは違うということだ。

人を出し抜いて、思いもよらないことを考え、作品に昇華させる。そういう活動を芸術活動と呼ぶ人たちがいるということになる。

まあ、アナタに理解しろなどとはアタシも言わない。賛否両論あるという世界。

作品の鑑賞というのは、作品と、見る側の対話であり、どんな作品であっても、意図しているモノはある。(それが、作家が、存在の意味は無いと言い張る、便器であってもである)

その意図しているモノを、見ただけで理解できるのかどうかは、「見る側」のアートに対する知識によるということになる。

創作者であれば、ただの鑑賞者よりは、多少、理解が早いと思う。

鑑賞するだけの人が、全く理解できないということでもないだろう。

それでも、作品の真意は、作家にしかわからないものだと思う。

そうして、作家にしか解らないことを、くどくどと説明したりはしないのも、作家なのである。

面倒だもん。

俳句と同じで、作品は、一旦文字として紙の上に書かれ、それを誰かに読ませたのだとすれば、その俳句は、読み手のノウミソの中の、全く別な意味を持つ世界となる。

そうして、それが作品の幅でもあり、作品の力でもあり、また、そこが素晴らしいのである。

今回の展覧会で一番印象に残ったのは、自分を展示している作品であった。

この程度の発想は、過去にもいたんじゃないかと思うけどね。笑。

小さい、白く塗られた、そう、トイレ位の部屋。

その中に男の人が立っていて、展示中のサインが貼ってある。

オジャラ「中に入れるの?」

芸術家「どうぞ」

私は、彼が中にいるのに、そのトイレの中に入る。天井には、蛍光灯、それから、ドアの後ろに、隠すように紙コップと、干からびたお茶のティーバッグのミイラ。その奥に、やっぱり干からびたスポンジ。

オジャラ「展示している品は、目に見えないモノなの?」

芸術家「いいえ、見えますよ。」

私は少し考えて、理解する。

オジャラ「展示品はアナタね!!」

芸術家「はい、そうです。」

オジャラ「アタシはまた、紙コップに入った、干からびたお茶かと思ったわ。それだったら、スゴイけどねー」

と言い、その場を去ろうとする。そうすると、4人組の、若い芸術家モドキギャルが、そのブースに詰め掛ける。全員、何だろうというキモチでワクワクしているので、アタシは、声を掛ける。

「中に入って、よーく見たほうがいいわよー。ささささっ。」

芸術家君は、トイレから出るワケにもゆかず、その牛ツメ状態に苦笑というか、かなりうれしそうな顔をして、何も無い部屋を点検しているギャルを眺めている。

そこに、展示の趣旨を知っている、同級のビデオギャルが登場。

「なあに、これ、展示の趣旨、変わってナーイ?」

この言葉が、一番笑えたよなあ。

アタシは解ってるんだけどさ。笑。

でも、趣旨を理解していない人を中に入れちゃうんだよね。動員力って奴よ。

現代アートの表現者は、作家そのものが作品なのである。

だから、アタシは、彼が、彼自身を展示するということには、多いに納得である。

その他、もう一人、大きなスクリーン3枚を並べて、食品とか、洗剤などの量産品を上から落とし、水の中に消えてゆくという映像を作っていた人がいた。地球環境を大切に的、ありがちなメッセージではあったが、解りやすいし、映像がキレイだった。

まあ、アタシとしては、この2人位かなあ。オッケー出せるのは。

後の人のは、まあ、フツー。

ふーん。という感じ。

私の理解が足りないのかもしれないけど、例えば、それがクライアントだったとしても、きっと、金は出せないと思う。

金になるアートを作れるのかというのは、芸術家であれば大切であり、日本には、現代アートに金を出す人がいないから、外国で勝負するってことになるかもしれないけど、外国でもきっと負けると思う。

世の中というのは、厳しい。

厳しいけど、ビデオ映像の加工ができたりすると、仕事には就けたりする。

自分を展示している人は、どーかなあ。

ビミョー。芸術性としては、自分を展示の方が高いような気がするけどね。日本に何人理解できる人がいるのかという話よ。

もう一人、映画チックな作品で、笑えた作品があった。時間が無かったので全部見れなかったのが残念。知らない間に作品に引き込まれていた。彼の作品は、名も知らぬ人をテーマにした作品で、英語のナレーションで、日本語字幕がついているのたが、ターゲットは、日本人という地味な笑いを取るタイプのムービーであった。

まあいい。ムービーは、金を払っても雇いたいという人がいないわけでもない。

アートでありながら、つぶしが利くというのは、大事だよなあ。

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