◆◆◆ 582 ★ ホッパー、ロートレック ◆◆◆

2005.12.13

テレビ番組を見る。

今日は、ホッパー。

彼の絵は見たことがある。

解説がないと面白さが解らないというところを除いては悪くない。

解説しなくても、面白い方が、価値は上だと思うけどなあ。それでも、面白い部分が隠れているというのは、隠れていないよりはマシということである。

隠れた意味があるというほうが、表面に露出されているよりも上と見る人もいるかもしれないし。

そうして、今日は、また、重大なことを学ぶ。

それは、独自の表現というのは、「見た目のオリジナリティー」というのに留まらないということだ。

例えば、ホッパーの場合、画面の構成力というのが作家のオリジナリティーになっているということである。

モチロン、絵を見ても、「ホッパーかなあ」的部分はあるものの、アメリカングラフィックの王道的作品群は、他の人に随分とパクラれているため、見た目でどーよというムードでもない。(アタシが見ている量が少ないってこともあると思うけど、例えば、ウォーホールとか、ノーマンロックウエルのような顕著な個性には欠けているという意味である)

その後、ロートレック。

周囲の画家から印象派の技法を学んでいるときに、「これは、自分のやりたいことではない。自分は、人物を描きたい」と気づいたのだそうだ。

自分で気づくのは大切なことである。

人にいくら勧められても、自分のやりたくないことなどしたくない。

内面表現の極まったスターや娼婦たちの絵は、どれも魅力的で、ため息が出る。

アタシが大学時代に見たロートレック展のことは、今でも覚えている。

赤いドレスを着て、黒猫を抱いた女のポスターに鳥肌が立った。

その絵の複製画は、バリ島に行くまでの長い間、私の部屋に飾られていた程である。

30代後半で死亡。しかも、アル中で、精神を破綻しながらの大往生。

画家の王道だよなあ。

優れた絵を描く人というのは、精神的に繊細すぎて、長生きできないってことなんだろうか?

ロートレックの番組を見ていて感じたことは、作品の芸術性というのは、画家個人の芸術性そのものであり、(共通点もあるが)基本的には、その画家の意思が結果に反映されている。

ということである。

アタシは、この一年、イロイロな作品や美術番組を拝見し、自分なりに、芸術とは何か?の切り口を探していた。

収集家のお友達も増えて、イロイロな話をすると、作家とは違う価値が存在するということも理解できてきた。

アングルとドラクロワとの対立などの話を見るにつけ、どちらも優れた作品であるにもかかわらず、相手の芸術性を否定し続けたというのが可笑しかった。

現在の美の否定から発した、新しい芸術性というものがドラクロアの絵には存在する。

それは、ピカソの「アヴィニオンの娘」に象徴されるような話である。

アングルは、美の追求にこだわり続けた。

それは、ルノアールであっても、上村松園であっても、同じことなのだ。自分の理想とする美を追求し表現する作業。ここにも、芸術性があるということに他ならない。

画家には、表現したいモノがある。

そうして、その表現したいモノというのは、画家それぞれに違う。

表現方法が油彩というだけで、他に決まりは無い。(日本の場合、日本画があるので、話がややこしくなるんだけどさ。目指すべき場所は同じところにあるわけよ。)

一生涯を通した作品作りにおいて、画家は、自分の描きたいモノをどう表現するのかという仕事に集約されるということだ。

なるほどねえ。

だいぶ理解が進んできたよ。

展覧会巡りには、かなりの金を注ぎ込んでいるからね。電車賃だって、結構な金額になっている。

作家が作品を作るときに、大切にすべきことは、「自分がどんな絵を残したいのか」

という所になるということだ。

美の追求。(アングル、ルノアール)

悲惨な出来事の記録。(ドラクロア・フリーダ)

社会風刺や否定。(ドガ)

タブーを公にすること。(マネ)

自分の不安。(ゴーギャン)

希望。(平山郁夫)

内面的表現。(ロートレック)

現在の美を壊し続けること。(セザンヌ・ピカソ)

共通項は、独自の表現と瞬間表現。

そうして、作家そのものが信ずる芸術性に向かった作品作り。

ということになる。

おおっ。