◆◆◆ 576 ★ リーウーファン、平山郁夫のテレビ番組 ◆◆◆

2005.12.9

溜まっていた「しゃぼんだまあおいそら」をアップする。よく毎日書くなあとアナタは思うかもしれないが、描かないと、どの展覧会に行ったのかも忘れてしまうのよ。

作品鑑賞にはいくつかのポイントがある。

学芸員や、画廊、収集家、評論家が「芸術性」を語るときには、一定の判断基準があるということに他ならない。

例えば、芸術家を紹介するテレビ番組にも、その「共通項目」というのはチラチラと露出される。

その、心に引っかかった言葉とか、キーワード的な部分を、ここに書きとめる、たまに読む。

解らなかったことと、解ったこと、これから知りたいこと、解ったけど、自分はそちらには進まないということを考えるたり、まとめたりという作業をしているということだ。

別に、アナタのために書いているということではない。

私に「芸術とは何か」を教えてくれるセンセイはいない。

大学などで、どういう作品を作らなければならないのかとか、そういう講義を受けたことも無い。だから、自分で学ばなければならないのである。

絵を恒常的に描き始めてから4年くらいかなあ。油彩は、今度の12月31日で、ちょうど丸三年を迎える。

大学の3年生ってところだろう。

その程度の絵が売れるということそのものが間違っているよね。笑。

リーウーファンのテレビ番組で、リーさんは、「秘密を語り合いたいときにはカンバスの上で」と話されていた。

いい言葉だったので、メモメモ。

絵を描いている時間は、秘密を語っている時間だと思うと、益々描くのが楽しくなるぜ。

新しい恋の相手というのは、カンバスということなのかもしれない。

大量にいるってことぉぉぉ??笑。

それから、平山郁夫の番組を見る。

キラキラとした美しい風景画は、ああ、これが風景画というものだと、心を動かされる。

独自の世界、お高い色の厚塗り、そうして、格調高さ。

テレビでは、「見た人が希望を持てるような絵を描きたい」

「苦しみを乗り越えた命の輝きや、希望と再生が描かれている」というナレーションが流れてくる。

なるほどねえ。

意図しているモノは、「希望」ということになる。

アタシ的には、もうちょっと、瞬間表現や面白さというものを加えてほしいけどね。(そういう作品も無いわけではない)汗。でもまあ、あの力強い素描を(テレビで)拝見したら、もう何も言えるはずが無い。

逆に、そういった小手先の表現に凝りすぎて、観衆の求める作品から離れ過ぎた作品への警鐘なのかもしれないとも思えてくる。(それは、浜口陽三の作品を見たときにも、同じような印象があった。)

日本画というものを継承し、新しい世界を築き上げたという功績や、日本の美術界への貢献度という意味からいえば、本当に立派な道を歩いてきた方であり、私は、その前に平伏している。

展覧会を見ながら、「芸術とは何か?」を考えると、芸術というものには、いくつかの項目がある。

そうして、それは、作家さんそれぞれの価値観によっても、結果が違ってくるというのが、今日解った。(笑)

アタシ的には、

1-オリジナリティ

2-瞬間(感動)表現、

3-構成力

4-格調高さ

5-色彩

6-絵の面白さ、不思議さ、ユーモアなどのプラス@

7-見る人のために描かれているのかどうか

というような項目があるぞと気づき始めてきた。

そうして、その項目とか、優先順位というのは、作家さんそれぞれで独自に持つものだということが、今日解ったという意味である。

ある意味、画期的な一日であった。

学芸員だって、別に、そういうすべてのことを全員が理解しているワケでもないと思う。どちらかといえば、自分の専門と価値観しか受け入れない、偏った人の集団とも思えてくる。

古典的芸術に見られる美の追求だけが芸術だと、今だに勘違いしている人だってイッパイいるのである。

が、それは、それで、間違いということでもない。芸術作品というのが、観客との対話のためにあるのであれば、好きな作品とだけ語り合えばよいのである。

平山郁夫は、最後に、「(絵に)気を入れる」と言って、仕上げに取り組まれていた。

私は、絵に気を入れたことがあっただろうか?(自分なりには、入魂と呼んでいる。汗)

足りないところがいくつも見えてきて、これからの作品作りを練り直そうと思う。

ありきたりな作品であるように見えて、毅然としたオリジナリティーを持っている。その偉大さに途方に暮れる。

そうして、あんなに高い絵の具を厚塗りできて、作品も何億円とかで売れちゃうんだから、スゴイなあと思う。

でも、駆け出しの画家がすることは、自分の絵を何億円で売るということではない。

精進を積み重ね、画業以外にも美術界に貢献されてきた結果が何億円にまで昇華できたのだということを忘れてはならない。

平山センセイは、もう、昔に何度も描いたお寺を、また、新しくスケッチしなおして、新しい気持ちで、新しい作品を作られていた。

誰にでもできることではない。

その力強い素描の映像を、私は忘れることはないだろう。