◆◆◆ 568 ★ 個展二週目 ◆◆◆

2005.12.2

貝殻や人体の絵を練習すると、絵が上手くなると教えてくださった方がいた。

今、どうしていますか?

そうして、貝殻の絵というのは、人物と比較すると、なんてつまらないんだろうと思う。笑。

金曜日は、アートボランティアの皆様がアトリエを訪ねてくださった。

お忙しい時間に、立ち寄ってくださり、ありがとうございました。

アタシのアートのレクチャーを聞いた方一名は、アタシの、現代アート作品に吹き出し、大笑い。

他の皆様は、神妙な顔で、作品を取り囲む。

これだから、辞められないのよね。

現代アートは、やっぱ、作品と、聴衆との対話だよねえ。笑。

病み付きになりそうな快感だぜ。

「ハイハイ、皆様、もっと、アートの勉強をしてね♪」などと言いながら帰っていただく。

そのあと、ケンタリさんが、訪ねてくださった。ケンタリさんは、個展の度に遠方から遊びに来てくださり、80越えとは思えないお元気なお姿を拝見するのが、私も楽しみになっている。

あいも変わらず、ほとんど人の来ない個展で、アタシは、黙々と絵を描いていた。

アトリエなんで、まあ、それでヨイのだと思う。

ケンタリさんとは、アートの話とか、現代アートは解らないという話で盛り上がる。

現代アートや、ピカソのキュビズムを良いと思えないと、アタシに愚痴ってくる。それは全く、普通の感覚なんだと思う。

普通の感覚。

世の中普通の人ばかりである。

普通で悪いのか?

ここなんだよね。

展覧会巡りをするようになって感じたのは、アートを学ぶ楽しみについてである。

キーワードは、バーンズさんの言葉

「自分はちっともイイと思わない作品なのに、(評論家などの専門家には)イイという人がいる。その理由はどこにあるのか?」

そうして、彼は、その「ちっとも良くない作品」を徹底的に研究し、良さが自分でも理解でる鑑識眼を身につけた。

そうして、セザンヌやら、印象派の、今では巨匠の作品を安価に、大量に収集することができたのだった。

アタシは、ピンときた。

「多くの人が解らない」という部分を自分だけが理解できると、金になるのである。

別に、バーンズさんだって、金のために、情報を集めたということではなかったと思う。

そういう、作家の事を調べたり、アートの傾向や歴史、実際の作品に触れている時間というのは、本当に楽しいものであり、人生を有意義にしてくれるのだ。

仕事とは別に、人生の愉しみを持つことを、誰も邪魔したりはできないだろう。

それが、何年かあとに、金になったという、おまけがついてきたということにすぎないのである。

「ピカソは、青の時代しか認めない。」

のままでは、デュシャンもムリっぽい。

オノヨーコの凄さなど、一生理解できないということになる。

評論家や、収集家が「この絵がスゴイ」というのには、理由がある。

であるからして、その、理由というのを調べてみる。

まず、ここがスタート地点である。

情報が自分の中に流れ込んでくる。

でも、情報だけでは、不十分なのだ。実際の絵を見る。

これが、イチバン大切になる。

アタシは、ピカソが大好きで、マドリーも、バルセローナも、パリのピカソ美術館にも足を運んでいる。

日本に来ているピカソ展というのも、必ず見ることにしている。

そういう中で、公開されている情報と、自分のそのとき持てる限りの、最大の好き・キライ、とか、欲しい欲しくないとか、スゴイ・すごくないいう価値基準で、判断を進めてゆくのである。

どんなに人がヨイといったとしても、悪い絵が混じっていることもあるからである。

良くは解らないながらも、他の絵も大量に見て、絵の情報が蓄積されると、客観的に、ピカソの凄さというのが解ってくる。

まあ、そういう経緯である。

であるからして、何枚かしか実物を見たことも無い人に、「よく解らないからキライである」などと愚痴られたときには、「よく解らない」ことを解ろうとしなかったひとは、ついていなかったと思うのだ。

だからといって、キュビズムを理解できなかった人が不幸だとも思わない。

北斎だって、十分にスゴイからである。

だけど、「その良さを理解したい」

そういう気持ちになったとしたのであれば、今からだって、十分に学習することができる。

そうして、「芸術とは何か」という大きなテーマを自分なりに読み解く、至福の時間が始まるのである。