◆◆◆ 555 ★ 作品の価格設定 ◆◆◆

2005.11.18

先日の、DMWのワークショップで、講師を務めてくださったTさんは、骨董好き。

旅先(出張先だと思う)で、小さな品を集めて帰るというのを繰り返しているのだそう。

そうして、「自分は今を生きられるけど、100年前に行くことは出来ない。骨董というのは、何年も前の工芸レベルを知ることができて、奥深い」

と話してくださった。

だから、そういう時代の優れた品を持ちたい。

まあ、そういうことなのだと思う。

陶芸の収集家というのには、初めてお会いした。あの筋、日本画の筋は、収集の道でも、ヤバイ筋である。

一生懸命勉強したとしても、(ニセを)掴まされる。

「気をつけてくださいね。」と、アタシ。

まあいいか。アタシの金ではない。

Tさんは、こうも言う。

「陶芸の展覧会には、僕は、よく足を運ぶんです。結構高い作品だって、良ければ買いますよ」

おおっ。お金持ちだぜ。

「展覧会の価格設定っていうのは、重要だよね。完売する展覧会と、一個も売れない展覧会というのがあってさ、価格設定を間違えると、一個も売れないんだからね(でも、高くても、ヨイ作品ならば、買う)」

という話。

マーケティングの専門家は、やっぱ、そう考える。

マーケターのゴールは、商品を販売することだからである。(今はもう少し進化した場所にある)

アタシは美大は出ていないが、商業のことは学んできた。

アタシが教えていただいたのは、たった2つのことである。

●適正な商品を適正な価格で売ること

●適正な場所で適正な人が売ること

適正って、何よ?

ま、それはね、その後勉強すればヨイ話なんだけどね。

アタシは、Tさんに、アートの市場の説明をイロイロとする。

美術市場というのは、中古市場である。

が、美術品なので、(芸術的価値が存在し)本や、他の品のようには価格が下がらない。

というところがキーワード。

しかし、中古品の売買に関しては、作家に金は入らない。

だから、死後、中古市場で、いくら値段が上がっても、画廊が儲かるだけなのだ。

中古市場の売買価格を目指すのは間違っている。

生きている作家がすべきことは、作品を生きている間に現金化することである。(アタシには子供がいないので、残す必要もないのだ。子供が大量にいる場合なんかは、事情が変わってくるのかもしれない。)

Tさんは、おおいに納得し、「アナタの言っていることは正しい」と頷く。

アタシが彼に言いたかったのは、骨董などを買うのはやめて、若手作家の新鋭作品でも集めればどうだという話なんだけどね。真意は伝わらなかったみたい。笑。

人の金なのだから、どーでもいいかぁ。

アナタは、彼に(はお金持ちなので、アタシの作品を)買ってもらえばいいと思うかもしれない。

頑張って陶芸釜を買って、DMを送るわん♪

だけど、収集活動というのは、そういう世界ではない。

出会いの場を提供してくれるのが、画廊ということでもあるが、どんな作品でもイイということでもない。

自分が収集活動を通し、理解できたことがある。欲しい品を頑張って買う。

まあ、ここがキーワードである。

集めているジャンル品以外は、極端に価値以下の価格で販売されていなければ、買うということもない。

逆に言えば、「価値があるのに、物凄く安ければ、収集アイテム以外も、買うことがある」

ということである。

そうして、そういった趣向を押し付けるべきではない。

求めている人が、買いたいと思う品を作る。

作家というのは、そういう世界なのである。

陶芸の場合、特にそういう傾向が強い。

「陶芸家の方の製作姿勢が気に入ったから、応援モードで、つい買ってしまう」

というのが、絵画などよりも、強い商品なのだ。

理由は、陶器という、生活に密着した商品だから、「どうせ使うものだし、壊れるものだし、たまには気分を変えたいし、いい人だから」

買ってあげよう。

まあ、そういう世界。

アタシは、その事にずっと前から気づいていた。

まあ、画家の作品というのも、「知り合いだから、買ってあげた」的購買動機というのは無いワケでもない。

その、義理的購入可能価格というのが、今は物凄く低くなっているということだ。

それと比較すると、絵画の販売価格は、「義理で買ってあげてもイイ」という価格を大幅に上回っている。

だから、どんなにイイ人の、ヨイ作品であっても売れないのである。