◆◆◆ 546 ★ 展覧会の感想など ◆◆◆

2005.11.8

今日も、新作を何枚か描く。

英語補助教材の挿絵も3枚程度描くのだが、もうちょっと加筆したい気分。

最後の方の絵は、大きいカンバスに描いているので、絵の具の減りが早くて驚くわぁ。

アトリエの中は、もう、油彩のニオイが充満していて、不愉快この上ない。

まあ、嫌いということでも無いんだけどね。

画家というのは、つくづく、孤独である。

この前、鈴木さんの展覧会の時にも、その話になる。

オ「あれっすよね、なんか、毎日絵を描いてるんで(人間と話さないし)、社会適応力落ちまくりっす。」

鈴木「俺なんか、ずっとニート状態よぉ」

オ「おおっ。画家って、確かにニートっすよね。(篭りきり)」

というようなやりとり。

画家って、ニートだったんだ。(→生活できないから、職業じゃないってことで。)

それから、気になった話といえば、リーウーファンの展覧会の感想。

テレビによると、リーさんは、韓国の画家さんで、小さいころは、民画と呼ばれる、水墨画のような様式を学んでいたらしい。

この展覧会では、民画のミの字も思い浮かばないような作品ばかりで、それはそれで驚かされる。

彼は、「手でカンバスに描くということから離れられない」と話していた。

美術館に設置してあった、彼の過去の作品のビデオなんかを時系列に拝見すると、「ああ、イイなぁ。」

という作品がいくつもあって、やっぱ、才能があったんだと思わされる。

「限りない反復の中で無限の新しさや視覚や感受性に訴えかける作品」を作ってゆきたいのだそうだ。

彼の作品を通して理解できたことは、その、プレゼン力の高さである。

作品に添えられている英語の文も潔く素晴らしかった。(学芸員に聞いたのだが、英文も自分で書いているらしい)

日本語のスピーチも立派だった。

自分の作品の芸術性を、イロイロな言葉を駆使して(聴衆の理解を)訴える。

まあ、ここがポイントである。

作品が解りにくいから、説明を要する。その説明を自らが、イロイロな言葉でプレゼンできるという力が備わっているということだ。

画家って、何だかんだ、やっぱ、自分の作品を文字情報にして、発信するっていうことができた人しか、有名になってないもんね。

もしくは、収集家と呼ばれるカテゴリーの人たちが、せっせと、当時の文献をスクラップしていたという話も聞く。

どっちにしたって、作品と一緒に、その説明文とか、どうしてその絵が作られたのかとか、どんな議論が持ち込まれたとか、誰とつかみ合いのケンカになったなど。

イロイロなエピソードが絵と一緒に残されている。

その情報の量に、学者さんと呼ばれる人たちは弱い。

とまあ、こういう構図が見えてくる。

学芸員とか、研究者の人というのは、自分で描かないから、絵を描く人の気持ちというのは、たぶん、ほとんど解らないんじゃないかと思う。

頼るべきは、残されている資料(の量)。

資料の量が多いと、研究しやすいの。世界各国の言葉に翻訳されて、本として増殖してゆく。それが、作品の価値になってゆくということなのかもねえ。

オジャラよ。自分の作品の芸術性について、「しゃぼんだま」でも語ったらどーなんだよ。

そーねー。まだ、それほどでもないわね。うっふん。

というように、芸術を語る程の絵でもない。

そこに気づいているというのは、我ながら立派だと思う。

額縁屋のオヤジとの話を思い出す。

額縁「芸術になどならなくて、売り絵でイーじゃないかよ。」

オ「そーだよねーっ。こんなに絵が上手いセンセイ方が、売り絵をどんどんと描いて、(こんなに安く手放しているのに)それも売れないんだもんねえ。アタシの絵が売れるはずがないよねーっ。」

額縁「夢みたいなこと言ってても、値段が手に届く所に無きゃ、イミがないだろう」

オ「だよねーっ。」

というような会話。

最近、その辺りは整理できてきて、とりあえず、芸術家の前に、画家にならないとイケナイということは解ってきた。

画家かぁ。

画家ねぇ。