◆◆◆ 539 ★ パソコンの整理 ◆◆◆
2005.11.3 |
パソコンの調子が悪くて、一日、画像の整理などをする。
新しいカメラになって、一枚辺りのサイズが大きくなっているからだと思う。 昔の写真を整理すると、イロイロなことを思い出すから不思議である。 千住の町も随分と沢山撮影しているのに驚いた。 まあいいか。 全部消去。 絵のデータだけは、CD−Rに格納。 それだって全部というワケではない。 英語教材の作品は、DTPデータにして、一旦自分のプリンタで印刷してみる。 ボヤボヤしているやつとか、イロがイマイチのは、データを作り直すというのを繰りかえす。 銅版画も、左の素描みたいな作品を作りたいんだよねー。なかなか、こういう線の版画は作れない。 オジャラよ。その前に、売れないだろうぜ。どーするよ。 だよねーっ。 猫の版画で、お客様の顔色でも伺ったらどーなんだよ。 最近、そういうのは、もう面倒くさい。汗。 |
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というように、絵が良くなっているのか、それとも終わりに近づいているのかという判断さえできなくなりつつある。 大体、20分のポーズで4枚とか5枚描くワケだからさ、一枚辺り5分ってことになるわけでしょう。 銅版画よりも、全然早いスピードで作れるんだけどなあ。 しかも、失敗しなくなってるんだよね。 紙は、もらいものの紙の裏だし。 まあ、失敗といえば、全部失敗だし、こういう絵だと言い張れば、まあ、こういう絵なワケでね。 素描が売れるようになったら、画家っていう気がしてくるよね。 ピカソの素描なんかを見ると、エンピツの作品であっても、一発で完成しているからね。消しゴム不要。 モディリアーニもそう。 迷いの無い線が、スッと引かれて、それが、もう、描きあがると作品になっている。 そうして、何十枚ものシーンのクロッキーが描かれていて、それが、再構築されて、そのまま油彩に昇華されている。 画家っつーのは、そういう絵が描けないとイカンのだと思う。(技術的な話よ。技術的な。) |
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そうして、クロッキーだけではダメだということにも気づいてくる。 プーケットで描いた絵なんかの方がよっぽど動きがあって、見ていて楽しいのだ。 これはこれで続けるけどね。 もう少し絵を売って、クロッキーの時間を増やしたいぜ。 こっちは、一年前のクロッキー。(もう見つけることはできません) まー、フツー。 それにしても、このモデルさん、ムリなポーズ取るよなあ。汗。 こんど、縛ってイイ?みたいな世界のポーズ大量で、描く方も大満足だった。(似てません) それでも、左の絵の方がイイ。 一年分の進化が凝縮。 というほどでもない。 |
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アタシが、大きい絵を描かなくなって、スーを含め、コロニ会の全員が、「もう大きい絵は描かないのか?」と残念がる。 ちなみに、去年の絵は、畳一畳ぐらいの絵だけど、やっぱ、10分位で完成。汗。 左のは小さいので、安ければ買ってやってもイイという人もいるだろうが、上のは、広げることもできないんだよね。 天井かも? 天井に、裸婦。 そっ、それはそれでスゴイけど。 まあいいや。昔の絵のことなど考えても仕方が無い。 新しい絵のことを考えよう。 そうして、不忍画廊のアライさんが、この絵のここを、もう少し、こういう風にして欲しいなどと、(アタシの絵じゃないよ)若い作家さんに、自分なりの思いを話している(んだけど、なかなか理解してもらえない)。みたいな愚痴?を思い出す。 それは、以前収集家の方がアタシの絵に対して助言してくださったことと全く同じ内容だったので、そこにも驚く。 求められている部分というのは、そんなに多くないということに他ならない。 収集家と画廊の要望は一致している。ま、そういうことになる。 要望だけはハッキリとしているのにも関わらず、手に入れられる人が極端に少ないということなのだ。 いくら人に言われても、内容が理解できなければ、その域までたどりつけない。芸術はそこにあるのだろうか?むふふ。 そういう話なんだと思う。 足りない部分に自分で気づいて、そこまで引き上げる。 そういう鍛錬をするかしないか。 そういうことのようだ。 でも、もっとも大切なのは、足り無い部分が何なのかを理解するということである。 自分の作品に満足している絵というのも、最近は見ると解るようになってきた。それはそれで、嫌な見方であり、アタシもついていないと思えてくる。 そうして、それに気づくのは、アタシだけではないんだって世界だということにゾっとする。 |