◆◆◆ 526 ★ 中島宏、ギュスターブモロー、デ・キリコ、鈴木敦子 ◆◆◆

2005.10.15

今日は、渋谷方面を攻略。

まず、松涛美術館を訪ねる。

青磁の中島宏さんという方の展覧会。

ここは、文化村に寄る時に、併せて寄ることにしている。

ポイントは、展示スペースが小規模というところである。

小規模の美術館というのは、どうやって成り立つのか、どうなってゆくべきなのか。

それを考えながらみることにしている。

この前の陶芸の展覧会と同じように、陶芸作品が大量に並ぶ。

入り口には、蘭の花の列。

まだ生きてらっしゃる方なのだろう。

大ぶりで、所々に線の入った美しいフォルム。

青磁の釉薬がどこまでも解けて行き、柔らかい陶肌。

そうして、拡張高く刻まれた釉薬の亀裂。

まるで、白砂糖の餡かけを固めて焼いたような煎餅の模様である。(オジャラよ、例えに品が無いぜ。)

コロニでのドローイング

アタシが、陶芸の展覧会を見に行くと、不思議がる人が多い。

しかし、見なければよかった展覧会というのは一つもない。

それが、公募展であろうと、お友達の展覧会であってもである。

陶芸の展覧会というのは、生きていても美術館で行われることが多い。

お高く止まっている美術館の学芸員には芸術を勘違いしている人も多いけれども、レンブラントやゴッホだけが芸術家ということでもない。

生きていて、立派な仕事をしてきた作家を世に出してあげるという仕事も担うべきじゃないかとアタシは思うけどね。

松涛美術館は、収集もしているみたいだけど、生きている作家さんなんかの陶芸の展覧会は、見にきているお客さんが真剣なのが素晴らしい。

買う気なんだよね。実の所。

作家さんのよる展示物の説明会なんかも催されていて、陶芸ファンというのは、金持ちだと思わされる。

アナタは、美術館の展示物が買えるということを知らないだろうけど、アタシは知っている。

正確には、中には買える品もあるらしい。

もっと正確に言うと、デパート美術館の作品は、買える場合がほとんどらしい。(買ったことありません。)

その展覧会が、何を展示していようと、一流の芸術家の作品というのは、ある域を超えている。

そういうことである。

一流か、それ以外か。

作家の作品というのは、それだけで判断されてしまう。

それは、「名前が通っている」という理由からではない。

「良い作品を作ったから」と理由だけである。

優れた作品を作り続けた人だけが、美術館で展覧会ができるのである。

一流の人の作品は、ある条件を満たしている。

そうして、その条件を満たした上で、更に、粒が揃っている。

私の作る作品のように、「時々良い作品が出来ることがある」

ということではなく、ある程度の作品が作れるのは当然として、「常に、今以上の作品を目指している」ということが、展示物を通して伝わってくるということになる。

若い作家さんの多くは、学校を卒業するとクロッキーを辞めてしまったり、名画を見に行かなかったりする。

ああ、この人は、絵が上手いけど、見ている数が少ないなあと思う人は多い。(プロを目指しているのに描いている数が少ないと思われるのは論外)

最近は、展覧会を見るだけで、そういう所まで解るのである。

絵を描くというのは、人生の楽しみの一つであり、多くの人を救える時間である。であるからして、アタシは、愉しんでいる人を不快にさせたりもせず、良さを見つけるようにしている。

が、この道を目指しているということであれば、どちら(作るという作業と、良いものを見るという作業)が不足していてもダメだということなのだろう。

パリに行った画家さんがチヤホヤされるのには理由がある。

それは、良い作品に触れて、模写などを通し、自分の作品を、もっと高い所まで引き上げることができるからである。

引き上げられるのかどうかというのは、画家の資質によるので、そうでない人も沢山いると思う。

少なくとも、チヤホヤされている人気・有名画家さんは、フランスでの滞在期間中にルーブルに通い(画家は無料。)模写などをするとともに、実際に売買されている優れた作品や作家と交流し、自分の進むべき道を間違えなかった人に限られる。

行けば良いということではない。

そこで、本物の絵画に触れ、画家として必要な条件というものを理解できたひとだけが画家になれたということのようである。