◆◆◆ 502 ★ コジコジ ◆◆◆
2005.9.14 |
アタシが、文筆業に進まなかったのは、さくらももこのせいだといっても過言ではない。 コジコジを見たときに、さくらももこの、実力を思い知った。 あんなに奇想天外な筋を考えることは、アタシには出来ないぜ。 そういうことである。 そんなさくらももこであっても、「モモのかんづめ」はまあいいとして、「さるのこしかけ」になると、ネタに詰まってきて、家族ネタになったり、外国に行ったりしては、また文を書くということになる。 人間の才能というのは、さくらももこであっても、その程度なのだ。 アタシは、もう、とっくに文の道には進まないことに決めていたけれども、彼女の作品に触れるにつき、そのことを再確認するのであった。 文を書き続けるというのは、誰にでもできる。 人に読まれる文を書き続けるというのは、よほどの才能が必要だということである。 |
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彼女の展覧会では、見たことのない本を沢山見ることが出来た。 そうして、展示してあるひとことひとことが、素直で、仕事に前向きで、素晴らしい展覧会だと思う。 売れてくると、作品というのは荒れてくる。 もしくは、行き詰まって書けなくなる。 それが普通の人間なのだ。 それは、絵であっても同じことである。 良い作品を作り続けた人だけが、スゴイと呼ばれ、死後、芸術家と呼ばれるのである。 ところが、作る側は、「見る人には、違いが解らないから、(落ちた作品でも)大丈夫」などと思ってしまう人もいるから驚くぜ。 多くの人は、それに気づく。 もちろん、気づかない人もいる。知名度だけで作品を買うという人も多い。 が、気づく人は、二度とその人の展覧会には足を運ばない。 |
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絵の荒れ方というのは、絵を見慣れていると、すぐに解ってくるものだ。 アタシは、文章のことは良くわからないけれども、池田満寿夫の本なんかをチョロリと立ち読みすると、よくもまあ、同じ話(奥さんが別れてくれないとか、内縁のツマがカワイイとか)をイロイロな出版社から出すよなあとガッカリするのである。 文の才能はなくても、本屋的には、出せば売れるので、どんどんと書かせて、内容が同じとかいうことは無視し(もしくは黙認し)、出版してしまうのだ。 そんな姿勢だから、つまらない本が溢れているのである。 彼の場合、偉大な芸術家だったのだから、文が文筆家より落ちるというのは仕方がない。 しかし、本業であるのなら、作品が落ちたなどと言われないように、もっと高い所を目指すのが本物の作家ということになる。 |
こんな作品は、ブックカバーになるとカワイイぜ。 |
金が入ってくるようになるとね、その辺がね。 人間というのは、解り易い。 良くても悪くても、買う人がいるのだから、楽して儲けよう。 悪魔がそうささやく。 そうして、やっと掴みかけた大切なものを失ってしまう場合が多い。 そうならないように、一生懸命描かなければ。 もっと、良い作品を作らなければ。 里中満知子も、「明日は、今日よりも、もっといい作品が作れるようになっていますように」 そういう気持ちでマンガを描いていると話していた。 そういう人だけが、お金よりも、もっと大切なものを手に入れられるということのようだ。 金よりも大切なものって、何よ? |