◆◆◆ 498 ★ 水彩画の加筆 ◆◆◆

2005.9.10

写真が上手く撮影できないんだよねー。スキャナーだと、もっと色が劣化しちゃうのよ。

クレーの番組を見て、一つだけ参考になったことがあった。それは、彼が、どうやって絵を描いていたのかということである。

一回、色の面を作った後、今度は大きいフォルムを作って、そのフオルムに沿って、地の色を更に加筆。

最後に、上から、全く別な点描や線などを施してゆくという技法である。

夏の個展の前に作った抽象画は、見るに耐えないし、一枚も売れないので、これを使って、カラーインクで加筆することにする。(すでに、色の面が完成しているので、その上に透明感のある画材を重ねるという習作)

おおっ。確かに、クレーっぽい。(→似て非なるものです。念のため。)

もし本当に同じように作るのであれば、画材をもっとテコ入れしなければならない。

でもまあ、同じ絵を描いてもしかたがないし、アタシは、今、ガラスペンに執着しているので、とりあえず、練習も兼ねて、上から、ドンドンと色を重ねてみる。

お高い水彩紙に描いていたので、ちょっとやそっとの加筆では、紙の方もビクともしない。

結局、保管していた作品の全てに加筆をしてしまう。

でもまあ、白い描画を最後に加えると、作品は新しい作品に生まれ変わる。

あ゛ーっ。なんとか売れる気がしてきたぜ。

抽象画は、まだ、アタシの絵という感じがしない。

クレーの凄いところは、「ケチ臭い、小さい絵だぜ」と思うけど、彼の作品だと、すぐに解るという所である。

作品レベルが安定していて、独自の世界を持っているということに他ならない。

そうして、そういった作品を作れるということこそが、画家に最も求められる部分なのである。

でもまあ、作り続けているうちに、「これが、オジャラの作品でございます」的な、独自の世界が出てくるかもしれないので、こちらはこちらで続けようと思う。

この前の美術の窓でも、「最近の抽象画には、全く芸術性を感じない」などと書いていた人がいて、興味深かった。(実の所、アタシも、そう思う)

単調なモチーフの配置や、色彩を散らしてゆくというだけではダメなのだ。

それでも、クラインの作品は、色一色だけなのに、彼の作品だと解る。

「なんていう青だろう。ひょっとして」と作家名を覗き込むと、「クライン」の名がある。

まあそういう世界である。

それは、情報の量と比例しているということに他ならない。「青い作品にこだわり続けた」という認知があったからこそ、その作品を見たときに、

「おおっ。こっ、これがクラインブルーなのね」

というような感動がアルワケなのよ。

でも、もし、そのことを知らなくても、「何てキレイな青なんだろう」

そう思える作品であった。

作品そのものが持つ、圧倒的な力ということになる。

こんな作品は、ブックカバーになるとカワイイぜ。

アタシが、どうして、自分では何の芸術性も感じない作品を作り続けているのかといえば、テキスタイルや包装紙の会社に、デザインを売り込めないかという野心があるからである。

今作っている柄には連続性がないので、もう少し考えないといけないかもしれないが、デザインが売れれば、絵を売るよりも安定して収入を得ることが出来るからである。

アルバイトで、人のイラストをトレースするよりは、ヨッポド力がつくぜ。

別に、芸術になる必要がない。

とりあえず、絵を描き続けるための収益を増やしたい。

絵は誰も買わないが、デザインを買う人がいるということは解ってきた。

今回の作品群は、写真では色が少し落ちるけど、実物は、驚く程の色彩を放っている。

本当は、3Dデザイナーとかいうのが、一番需要があるんだよね。

なかなか、そっちには行けないのよ。

でもまあ、こういう作品の部分部分を面として使うことはできるもんねえ。