◆◆◆ 497 ★ パウル・クレーの番組を見る ◆◆◆

2005.9.10

この絵はまだ途中。

テレビで、パウル・クレーの作品を見る。

彼の作品ときたら、いつも、ケチ臭くて、ホントに小さい作品ばかりで驚かされる。

ほとんどが紙に描かれており、安い紙なので、紙が酸化して、(たぶん、退色もしている)作品は物凄く劣化していることが多い。

しかも、それは、とても重大な作品のように展示してあるのに、いつもちっともイイと思わないのであった。

クレーの作品を見ると、「へぇー、これがねぇ。」

と首を傾げたくなる作品ばかりで、カンディンスキーとか、ミロのような感激は沸きあがってこない。

が、何故、(日本で)こんなに人気があるのか。

アタシは、そのことを知りたいと思っていた。

あんなケチ臭い絵が、高値で売買されるには、理由があるのである。

クレーは、最初音楽をやっていて、現代系の、ワケ解らない音楽に怒り、絵の道に入る。

そうすると、絵の方も、現代系の、ぐちゃぐちゃな時代に入ってしまっていて、自分のテイストとは合わなかった。

長いこと、芸術制作から離れ、挿絵などで収益を得ていて、その後戦争になってしまう。

音楽は、なんだかんだ続けて、今度は、その音楽を絵に仕立て直すという作業をスタートしたのだそうだ。

アタシには、難しくて、何をどうしたのか理解できなかった。

例えば、音楽をグラフ化し、それに色をつけたり、音符を単調化(→、ちと違うと思うのだが、解りやすく言えば、そんな感じ)し、それを平面に展開するとか、そんな方法で作品を構築したというのである。

なるほどねえ。

それほどの作品には見えなかったが、絵に意味があるということは理解できた。

アートの収集をする人は、インテリ系の人が多いので、そういった、作品作りの緻密なストーリーというのに物凄く引き込まれてしまうのだと思う。(絵を構築し、完成させるまでの間の、膨大な資料が残されているのよね。)

マーケティングの基本理論として、「情報の量と比例して、好感度はアップする」

とまあ、そういう世界の一つだということだ。

独自の方法で絵を構築し、自分の道を開いた。

だから価値がある。が、誰も理解してくれる人はいなかった。

そこは、セオリー通りである。

アタシは、意味のある絵が悪いと言っているのではない。多くの絵は、理由があって存在している。

それは、宗教や儀式を伝達することから始まり、自分の存在を世に残すための肖像画でもある。

どんな時代にも、世の中を風刺したり、世相を記録するような作品もコッソリ描かれているし、戦争の悲惨さを伝える絵というのも、延々と描き続けられている。

それは、戦争も終わることが無いからである。

時代がもっと新しくなると、今までの作品から離れて、観念的な発想そのものに芸術的価値があると言い張る人が現れたり、意味の無い作品、廃材を利用した作品、ナゾナゾ系の作品なんかを作り続ける人も出てくる。

最近の傾向は、インタラクティブ系かなあ。

電気とかビカビカ使った作品の中にも、面白い作品がある。

現代系を除けばほとんどの作品には意味があり、見る側は、その意味が難解で、情報量が多いほど嬉しくなる。

例えば、一番ブ厚い歳時記の中から、誰も知らない語彙を使った俳句のようなものである。

自分だけが謎を解けた。絵の真の意味を理解できた。

とまあ、そういう優越感に浸れるということのようだ。

評論家とか、研究家がしていることは、所詮その程度だとアタシは思っている。

絵を描く側にしてみると、絵の本当の意味など、本人にしか理解できない。

もし、絵の意味について、正しい解説を求めるのであれば、それは、本人の手記以外にはあり得ない。

でもまあ、作家には2通りあって、作品を作るのに、物凄く理由を大切にする作家というのとは逆に、何も考えずに作品を作れる作家というのも存在するのである。

サラリーマン時代、絵を描きたい人が集まって、昼休みにハガキに絵を描く会というのを主催していたことがあった。

そのときに、講師をお招きしたことがある。

イギリスの美術学校に留学し、今は日本でグラフィックデザインをされている方である。

彼は、独特な色使いの抽象的な作品を見せてくださったが、「こういう作品は、いくらでも作れます。作品に意味があるとか言っている人がいますけど、あれは、ウソですよね。出来た後に、理由をこじつけているだけですよ。描いているときには、(僕は)何も考えていません。」

と講演してくださったのが印象深かった。

「おおっ、何も考えてないのかぁ。」当時は、抽象系の作品を自分が作るとは思いもよらなかったが、アタシは、たとえば、人物や花であったとしても、絵を描く時にほとんど何も考えていない。

考えるのは、隣り合わせる色が、間違っていないかどうかぐらいである。(反対色か捕色を使うことが多いけど、全体的に見て、バランスが悪くないかとか、絵を引き締めるかどうかとか、まあ、そんな程度)

それは、アタシに限らず、アタシの所に来るアーティストのほとんどがそうである。

ワガママさんにしても、タイヨウさんにしても、カツミさんにしても、とりあえず、描くというのが先に来る作家さんが多い。

共通しているのは、独自のフォルムと物凄い色彩感覚を持っているということ、絵を描くのが早いということである。

タイヨウさんが個展に来てくださったときに、アタシは確認する。

オジャラ「絵を描くときに何か考えてます?」

タイヨウ「嫌まあ、最初に何を描くかは考えますけどねぇ。あとは、何処を何色で塗るのか程度しか考えないですねぇ。」

とまあ、こんな会話。

意味を考えなくても絵が描けるのであるから、別に意味をつける必要がないよなあ。(と個人的には思う。)

もし、「これは、千住の祭囃子にインスピレーションを得て、作品にしてみました」

などと説明したとしたら、それはウソになっちゃうもんなあ。自分の作品に価値を与えたり、観衆を説得するためにウソをつくのは、詐欺行為であり、もっとも愚かな作業だと思う。

嫌まあね、そっちの方が、お客様が喜ぶからね、生きるために、後から意味をつけているという人がいても、アタシは否定しないけどさ。

ウソをつくと、絵が乱れるぜ。