◆◆◆ 462 ★ 読売書法展・八木一夫 ◆◆◆
2005.8.10 |
読売書法展は、さすがに有料なだけあって、タダの展覧会よりも格上だった。 まあ、格上なのは、最初のお部屋だけだったけどね。 素人でも解る、書の違いって、一体何なんだろう? とりあえず、常任理事のセンセイ方は、伊達にセンセイと呼ばれていない。 作品の力、安定感、空間の取り方。 どの書も文句無くスゴイ。 その後、延々と理事の部屋が続き、参事だとか、ナントカいう役職の部屋が続く。 これって、「平社員、主任、係長、部長、課長、常務、」みたいな世界なんだろうか? 一般の人の入選作は、明らかに安定感がない。 「ああ、この書は、急いで書きすぎている。書いている量が足りない。心が行き届いていない」 というようなことが、見た目で解るのである。 町内会の無料書道教室で習った甲斐があったというものだ。 見る人が見れば、もっとハッキリと、力の差が解る世界なんだろう。 |
|
そうして、アタシのような書は一枚もないから、やっぱ、書の展覧会の公募に出すのは辞めよう。 みたいな、ワケの解らない精神状態に。 もう少し、「新鋭の書」みたいなのも大募集みたいな展覧会の方が、ヨイということのようだ。 大体、水彩紙とか、高級印刷されたポスターの裏に描いているしね。 書の公募では、前も思ったんだけど、有名人の詩とか漢詩、短歌、歌謡曲の歌詞なんかを描いているんだよね。 自分で考えるより容易いからねー。 書の人に求められているのは、書を書く能力で、文を考える能力ではないというところが奥深いよね。 だから、展覧会がつまんねーのよ。 「あいだみつを」は、やっぱ、自分の詩を書にしたわけでね、詩を書く才能もあったということになる。 書の新しい時代を作ったってことだよねー。 それでも、書の人は、自分の詩を書いたりはしないみたい。詩を作れないってことなんだろう。 もしくは、自作の詩など、書道会が受け入れないということなのかもしれない。 ま、つまらない展覧会ながらも、得るものはある。 書というのは、文字を書くということに終始すればよいので、書道のセンセイになり、収益を得ることが可能になるのである。 なるほどねえ。 |
|
その後、八木一夫の展覧会に。 白い上薬を塗った陶器に、独自のドローイングを施した作品には心が惹かれたなー。 その線は、なんだか、銅版画のドライポイントの線みたいで、一個欲しい。 みたいな感じ。 書の展覧会なんて、何千枚もあったけど、一枚も欲しいと思わなかった。 書を売るというのは、難しい。 上野の似顔絵コーナーでは、書を一枚800円で売っているオッサンがいた。何でも、外人さんの名前を漢字で書いてあげるのだそうだ。 英語が話せるってことかもねー。 アタシもやろうかなあ。とんでもない文字を使っちゃいそうだよねー。 ケイテイ→毛意手射 アンドレア→餡怒玲吾 みたいなね。画数多いと喜ぶんだよね。 |
|
八木の作品は、器から離れた陶芸作品で、まあ、当時としては前衛的な作品だったんじゃないかと思う。 この前行った陶芸の展覧会でも、器の部門と器から離れた作品があった。 どちらもたいして欲しくはなかったというのを思い出すと、あ、これ欲しい。 みたいに思わされた作品がいくつもあった八木の展覧会は、アタリということになる。 どんなアート作品だって、金を出して買おうなどとは思わない。 そうして、立体作品というのは、平面と比較すると自由でいいなあと思うのであった。 それでも、お茶の茶碗とか、花器なんかも作って、シッカリ稼いでいるからね。 よーするに、自由な発想の作品なんかで人を集めながら、金持ちに、楽茶碗なんかも売っていたってことでね。 お茶の茶碗かぁ。 良さを理解できる教養がないぜ。 |