◆◆◆ 424 ★ 書を書く ◆◆◆
2005.7.15 |
朝から、久しぶりに書を書くというよりは描く。 水彩紙に墨、ガラスペンで描画。 ま、こんなもんだろう。 さすがにドローイングの成果というのは文字にも出てくるものである。 字を見ただけで、誰の字だとかいう字にはまだなっていないし、そういう世界に入れるかは解らないが、昨日よりはマシである。 サインが稚拙だよなあ。Rにしておくか。 結構厚い水彩紙に描いているが、水を大量に使うため乾くとヨレっとしてしまうムード。 水張りをするべきなんだろう。 書なのに水張りかぁ、、、、、。 どちらにしたって、この前、書道教室の展覧会に出そうと思っていた字よりはマシである。 書道教室は、申し込み日を忘れていたら、定員満員でもう入れなかったんだよね。 まあいいか。 書の基本というのは教えていただいた。 |
最初は、もう少し良かったんだけど、乾燥するのに移動したらマックロに。 あ゛ー、もったいない。 |
書は、水を大量に使うため、乾かないし、場所を移動すると、せっかくの滲みが壊れてしまう。 だから、あまり描けないんだよね。はぁ。 しかも、スキャナーや紙代の問題で、小さい紙に書いているから、空白がイマイチ取りずらい。 ま、書家になろうということでもない。 文字と絵というのは、あまり変わらない。 作家がそれをどう表現するのかというのが重要である。 文字を作るというときには、文字から逸脱してはいけない。 それは、陶芸をやるときに、器として用の美を追求するのか、器から離れてしまうのかというのに似ている。 野焼き陶芸に入り、陶芸展にも足を運ぶようになった。焼き物と書というのは、なんか近い場所にあると、いつも思うのだ。 オジャラは、書は今後は習うことは無いと思う。 ペンで描いたりしたら、それはもう、書ではないという人もいるのかもしれない。 が、かなり最近まで、筆しか筆記具が無かったのである。 その時代に、他の筆記具があったのであれば、書や日本画の人であっても、当然にそれを試したとアタシは信じている。 それが、画家の好奇心であり、向上意識であり、また、楽して作品を作りたいという気持ちでもある。 全ての画材の進歩は、作家がカンタンに作品を作るための、ニーズを満たした商品開発に他ならず、画家は、それを使うことで、自分の表現したい世界を実現することができるのだ。 |
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もし、ペンで水彩紙に書いた書が、書としてみとめられないのであれば、それは、受け入れる側の力が不足しているということだと思う。 書というのは、文字を書く、墨・和紙を使うというように、物凄く、制限された条件で作成される文字芸術なのだ。 多くの書家は、文字から離れられない。 せいぜい、水墨画を習う程度なのだそうだ。 材料費の問題なのかもしれない。(日本画は、別な世界、お高い所にある) 練習とはいえ、半紙代も、筆も墨もばかにならないからである。 あれだよなあ。サインをRだけにしたりすると、それだけで、展覧会に落ちるよなあ。 ウルサイ先生方が出てきて、「書のサインというものは、ウンヌンカンヌン」と専門誌に書いてあるような、ありきたりの話を長々とされるに決まっている。 外人さんは、どうしているんだろう。 カタカナ表記で書かせたりするんだろうなあ。たははは。 解りやすい世界だぜ。 あのね、サインというのはね、作品を誰が書いたのかを示す程度の目的なのだ。 理花だと、逆に、アタシの作品だということが解らないだろう。みたいなね。 |