しゃぼんだま あおいそら (ブログ by 芸術家 おじゃら りんご)

◆◆◆ 4041 ★ 歌というものには ◆◆◆

2020.2.29訃9.

この前参加した、万葉集の講義で、大宰府の話がいくつも出た。

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都から離れた場所で、都から持ってきた梅を沢山植えて、花の咲くころには、梅の花見をして、寂しさをしのぐというような歌が沢山残されていた。

都には、妻がいるとか、過酷な生活が伺われる歌がである。

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特にね、都で、贅沢で便利な暮らしに慣れていた官人たちには、面倒で辛く、貧しい生活を強いられる場所であったに違いない。

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歌というものには、品性が宿る。

そういった辛い中でも、辛さを微塵も感じない歌もあれば、愚痴や後悔ばかりを連ねる句もある。という意味である。

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ピース又吉さんが大宰府を詠んだ短歌

「雑踏の声掻き分けて耳澄ます

天神様の解(かい)すハレルヤ」

最後のハレルヤはどうかな。

道真公は、「ハレルヤ」とは、絶対に発声しなかったはず。

信仰が違うからである。

彼の立場で、信仰が混じれば、民が迷うもんね。

優れた指導者には、宗教の混同などあり得ないよ。

内心、異教について考えることがあるとすれば、政治の安寧のために排除することだけだろう。

それは、客観的な政治テクニック的な話で、本人の信仰の度合いとは違う。

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という理由から、私は、

この「ハレルヤ」という言葉を、この短歌にぶつけることそのものが、信仰が無い人、そのことを軽く考えた人が読んだ歌だなと思えるけどな。

インパクトはあるけど、信仰というのは、道だからね、混ぜこぜにしてはいけない。

もし、不愉快に思う人が出るのであれば、テレビ電波で流すべきではない歌だろうと思う。

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というように、読み人への配慮や、教養の深さ、信仰の度合いまでが、短歌や俳句に表れてしまうことは、表現者としては見逃せない。

まあ、アタシは、そんなに深く考えてはいないんだけどさ。

趣味だからね。笑。

「教会にもモスクにも雨」 おじゃら句

嫌まあ、これはいいよ。笑。(高層ビルから)見たままだもん。宗教を混ぜているワケじゃない。

まあいいや。

人の歌など、どっちでもいい。

私は、自分の絵も、俳句も、読んだ人がハッピーになる作品になるといいとは思っている。

それが私の道であるし、商売なのであれば、自分の不幸を買うものに押し付けるべきではないのである。(*゜▽゜*)ノ

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