◆◆◆ 338 ★ 若冲・寛治郎 ◆◆◆
2005.4.5 散らかった机の上での作業。 性格的な問題だと思う。 |
若冲という画家は、当時は、その新しい手法のため、画壇からは全く認められなかった方らしい。
生きているような力のある作品は、テレビで見てもスゴイ。 誰が見たってスゴイ。 圧倒的なスゴサである。 彼は、1000枚ほど、中国や日本の絵を手本に、模写をした後で、「いくら模写を続けていても、本物を越えることはできない。→ならば自分で、本物を描こう」 と思ったらしい。(模写の中にも、本物よりもスゴイ奴も沢山あるらしいけど) それほど、当時の日本画教育というのは、模写をベースにしているということなのかもしれない。 アタシは、バリ島に滞在していて、バリの伝統絵画も、全く同じように、先生の模写をひたすら繰り返すという退屈な創作活動の実態を知っているので、その辺は、理解できる。 しかし、本当に才能がある人は、模写であっても、独自の世界が勝手にでてきて、自分の作品に昇華されてしまうという、恐るべき事実も知っている。 |
沖ノ島の指輪をモチーフに展開したデザイン。 説明しないと、誰も解らないというほど離れているんだけどさ。たはは。 転写をしていると、位置がズレていたり、転写に失敗したりを繰り返す。 集中力が欠如しているのである。 確かに、この作業は飽きるのよ。 |
寛治郎という陶芸家の番組を見る。 彼は、「好かれるかどうかは解らない。自分の好きなものを作ってみようというのが私の仕事です。その際に、表現される、ギリギリの自分が、同時に他人のモノだというのが、自分の信念です ギリギリの我に到達したときに、ギリギリの他にも到達する。 自他の無い世界が本当の仕事の世界。」 なのだそうだ。 張り紙のようなモノに「新しい自分が見たいのだ。仕事する」と書いてある。 ***** などと、テレビの中で語っていらっしゃった。 何のこっちゃ? 解説の方の説明によると、 「この『他』とは、ケチな近代的自我ではなく、小さな自我を超えた大きな世界。民芸も、他人の芸術も、あらゆるものが入り込んでくる」 ということなのだそうだ。 *-*-*---*-*-* まだ良く解らないが、いつか解る日が来るかもしれないので、とりあえず、記録。 これを読めば、このときに、心に引っかかっていたことをまた思い出すことができるからである。 寛治郎の作品を見て、一番笑えたのは、L字型土管の花器である。 土管を見て、すぐに同じ形の花器を作ったのだ。しかも、いくつも。 彼はデュシャンよりはもっと古い方だが、便器の作品を見たら、きっと、便器の花器も作ったに違いない。 そういう作風である。 この人だって、古代の陶芸の名品を多数復刻、自分の作品に昇華させて、究極を手に入れたのに、それを放棄して、自分の世界を歩き始めたひとであり、若冲と同じである。 最近、絵の人よりも、工芸の人は自由でいいと思うことが多くなった。 |
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この前、番組を見た、帖差センセイ。 彫金の方である。 美しく、独自の世界も入り込んだその作品は、日本を代表する工芸品である。 そうして、金属から立体を形成しているのに、なんと自由で、なんとやわらかく、美しさの極みであった。 彼は、日展の審査員なども長年務めているのだそうだ。 日展の工芸部門は、じゅんさんに勧められて足を運んだが、絵画部門よりも、ずっと面白かった。 帖差センセイのセンセイは、「格調高い作品を作れ」と教えてくださったのだそうだ。 なかなか教えられないぜ。 格調高さというのは、誰でもが手に入れられる世界ではない。 ある種の才能だとアタシは思っている。 |
当たったカバン。おめでとう。 マンハッタンパッセージという、 有名ブランド品だぜおいっ。 |
左上は、てぬぐいのデザイン。同じ柄の連続なのだから、デザイン画は一部でもイイような気が、アナタもするだろう。 しかーし、自分の絵の練習のために作っているのだから、一部しか転写しないのは手抜きなのである。 てぬぐいの柿渋型紙は、小紋柄であっても、てぬぐいのサイズに型を作る。 それが、染めるときに、最も効率がよいし、切れ目なども入らないからである。そこが、着物の小紋と違うところである。 そんなもんで、折角、実物大の一枚の型紙を作るのだから、柄の一部に変化をつけようという発想から、下絵作りはスタートしている。 上の方は、花柄は除去し、格子を残して、全体的に少し余白を取ろうと思う。 たったそれだけでも、全体的な見栄えが単調さから開放されるのである。 てぬぐいの花模様を転写するだけだって、息切れしてきて、作業は雑になり、格子模様はズレていたりする。 作品を作るという作業は、根気との戦いだ。 アタシには、根気が足りないのである。 ここで、嫌になって、辞めてしまうのか、最後まで作り進むのか。 失敗しないで転写する集中力があれば、もっとキレイに下絵が作れるのに、自分の力の無さが情けなくなってくる。 そうして、そういう自分に気づいて、集中力を取り戻せる精神力とも戦っているということである。 |
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