◆◆◆ 334 ★ テレビ番組を見る-2 ◆◆◆
2005.424?2 |
サトナカ先生、アンザイ先生の問答は、なかなか興味深かった。
「(写真のような)どんなにキレイな絵が描けても、それは自分の絵ではない」 ↓ 自分の絵を目指す ↓ 描いている物と、人が求めているものとの狭間で、何が良い絵なのかが解らなくなってきて、葛藤だけで描いている ↓ (自分の絵は評価されないので)絵で食べられない人の苦悩の典型が生まれてしまう。 みたいな話であった。 顧客ニーズと、芸術の方向がズレているということか。なるほどねぇ。 そういえば、331号の横山大観の号で書いたミヤサコさんの話を思い出す。 「花→風景→人物」ときて、「花」まで戻ってくる。 ミヤサコさんは、ここで、一周して、自分はもう、全部描けるようになった(から満足だ)という話であった。 ミヤサコさんっ、べっ、便器はどうっすか? お客様の要望は、「花→風景→人物」止まりだということで、それ以上は期待されていないのだ。 だから、その程度の絵を描いておけばよい。そういう風にも聞こえてきた。あーたね。でもね、彼の作品はスゴイよ。それは、芸術として、誰にも真似できない域で、技法も結果からは想像できないような作り方をしているのよ。芸術としての価値はある。 それでも、禿げ頭にチン餅のセンセイとか、この前見た、彫金の帖差センセイなんかの作品とは、全く違うわけ。 「新しいことをしよう」という域が違うのよ。 サトナカ先生と、アンザイ先生の会話では、お客様に期待されていないのに、勝手に、それ以外のことをする。それがゲージツだということのようだ。 ゲージツ活動って、現代アートなの? 学んできた商売道とは違うことは、理解できてきた。 |
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サトナカ先生は、こうも語られていた。 「ゲージツ家というのは、一緒にいてもあまり楽しい人でもない。傍にいたら、嫌だなと思うのが芸術家である。あれを描きたい、これを描きたいということだけに集中しているので、イイ人では有り得ない」 のだそうだ。 アタシは、イイ人だけどなあ。まだまだだぜ。 まあ、ゴーギャンは、家族にも逃げられ、きままな南国暮らしをして、それでも絵を描き続けられたのだから、やっぱ、幸せモノだったに違いない。 独自の画風っていうけどさー、絵の具代を節約しなくちゃならなくて、超薄塗りで、あーなっていっちゃったってことはあるはずなんだよね。 絵のフォルムとかは、確かに独自の世界を感じるけど、彼の場合、最盛期はもっと前にあると思う。 というように、絵の情報が増えてくると、結果に対する評価もできるようになる。 ただ、結果は別にしても、生涯新しいフォルムにチャレンジし続けたというのは、それはそれで、芸術家の王道なのかもしれない。作品を通して、そういう軌跡がハッキリと見て取れるのだ。 死んだ後にしか、その軌跡をたどれないというのがついていない。 彼がもし、晩年、ヨーロッパでもう一度展覧会を開けば、金になったと思う。 そして、51歳で早死にしないでも済んだんじゃないかと思う。(金があれば、治療ができたはずなので。) 絵も、もっと変わったと思う。 その点が惜しい。 ゴーギャンやゴッホの絵は、当時は、ものすごく斬新で社会的な評価をされるまでに、少し時間がかかったのである。 ゴッホの場合は、自殺しなかったとしても、生きている間に、作品が認められたかどうかは解らない。それくらい、今までの常識を超えた絵であったということだ。 マティスやピカソは、生まれたのが少し後だったので、理解できる人も出てきて、生きながら、売れることができたのだ。 |
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アンザイさんは、「画家は何故絵を描くんでしょう?」 と問われ、里中センセイは、 「絵を描く人にとっては、描こうとしている自分、描いている自分、完成した絵。すべてが自己確認だ」と答えられました。 「絵が上手く描けるとか、絵は上手くなければならない(という常識的な観念)を乗り越えた人だけが画家である」キッパリ。 なのだそうです。 センセイっ、お言葉が深いっす。でっ、でも、まだ、上手くない絵の段階では、上手い絵を乗り越えられないっすよね。その辺、どーなんっすか? やっぱ、ゲージツは、上手い絵→それを超えた絵って順番なんっすか? あ゛ーっ、聞きたいぜ。 絵が下手な人は、普通は画家を目指さないから、そこが違っているのかもなあ。 絵を描くことが自己確認だとも、思ったことないけどなあ。何を確認すればイイんっすかね? |
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そんなこんなで、この番組のトークは、何度か繰り返し見る。
見れば見るほど、サトナカ先生の潔さが伝わってくる。 人間の喜怒哀楽を書きすぎて、常識的な感性が鈍っているという気がしないでもないが、冷静さこそが、彼女の作品の源なのだと思わされた。 どんなに悲惨な話でも、冷静に受け止め、客観的に分析できるから、感情的な表現も作れて、さらに、人の心を掴んでゆけるのだ。 ラファエロの、「栄光から転落」の人生であっても、「まあ、よくある不幸ですよね」の一言でオシマイだからね。よくある不幸じゃないと思うけど、彼女にしてみれば、よくある不幸のひとつなのだと思う。マンガを書くために人生を沢山見すぎてきた結果である。 横山大観が、「画は人なり」と語っていたが、全く同じことを、彼女を見て感じたのだった。 優れたものを作れるには、勉強もし、人間も磨かないといけないということのようだ。 この言葉は、ものすごく、表面的なありきたりの言葉のように思う人もいるかもしれない。 では、凡人と、精進している人の作品が、どこに出てくるのかという話である。 |
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イラストの仕事なんかをやると、そういうのは、ハッキリとする。
仕事によって、ギャラが違ったりするからである。 少し仕事が来るようになると、値段の高い仕事と、低い仕事というのが、混在するようになる。 そうするとどうなるのかといえば、ギャラの安い仕事というのは、手を抜き始めるのである。 なるほどねぇ。 人間的。 それが凡人だということだ。 そうするとどうなるのかというと、作品が荒れてくる。荒れた作品が印刷物になったりすると、次から仕事が来なくなる。 そういう流れになるのである。 社会構造というのは正しい。 が、作る側というのは、あくまでも自分本位である。 有名になったから、ギャラを値上げしろとか、そういう話になってくるのである。 そうするとどうなるのかといえば、今までのギャラと同じ値段でやってくれる、新しい人に仕事が流れてしまうということになる。 そういう、価値観のズレや、自分の作品に対する思い上がりというのが、結局、貧乏を招いている。 自業自得型。 そこが、ゴーギャンの壮絶な創作活動と違う、貧乏作家の構造である。 プロ根性と、ちょっと絵が上手い人との差なのである。 出版社とか、依頼者が捻出できる予算というのは上限が決まっていて、その金額は縮小気味なのである。アナタのギャラだけがアップするはずがない。 良い作品を作り、他の仕事も自力で増やしてゆくくらいの、強い意志で、一つ一つに取り組まなければならないということのようだ。 アタシが描いている雑誌の表紙などは、お友達の広告代理店の皆様は、毎月チェックしてくださって、「今回のは、ヨカッタよ。」とか、「前より、線が滑らかになってきたね」などと、いつも感想を伝えてくださるのである。 表紙だからね、つい見えちゃうんだろうけどね。 皆さん、私のことを心配してくださっているのかと思うと、本当にありがたいことだと思う。 そういう仕事のチャンスを持てたというのに感謝して取り組めということなのだろう。 本当のプロというのは、その辺も良く解っていて、引き受けた仕事の手を抜いたりはしないのだ。 大量に展覧会を見ているので、たとえば初めて見た人であっても、「この絵でこんなに有名になるはずないから、絵が落ちているんだろう」とか、この作品は「手を抜いているぜ」というところまで見えてしまうのだ。 人の作品の裏事情は良く見えてくる。展覧会で人間性の未熟さまでも見えてしまうのだ。恐ろしい。 オジャラよ。人の作品ばかり見ていないで、アンタも、手を抜いていない作品を作っていると思われる精進をしたらどうなんだよっ。みたいな感じっすかね? 多くのサラリーマンは、自分の給料が安すぎると感じているのと同じことである。かといって、給料以上の精進をしない人には、昇格の話は来ないのだ。 |
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