◆◆◆ 306 ★ デュシャンとカエルのおにぎり ◆◆◆

2005.3.8

ちくま学芸文庫より出版の

デュシャンは語るの青ヒゲ。

今日は、いよいよ、デュシャンを見に行く。

逆さに置いた便器をである。

彼の作品はいくつもあって、現代アートティストたちは、デュシャンの作品に刺激を受けたと言い張り、その結果作られたパクリ作品も近くに展示されていた。

うーむ。

セイコさんも言っていたが、入ってくる自分以外のアートを除外して描くことなど出来ないのが人間なのだそうだ。

そういうものかもしれない。

パクリとか、刺激を受けたものを、一旦はそのまま描き写したり、作品に投影したりして、次の作品は、パクリだとバレないように、こっそりと入れるということのようだった。

それは、日本画家で高額納税者でもある、中島千波さんでさえ、テレビでそう語っていた。

「バレないように、こっそりね」→俳句みたい。

どんな人でも、そうやって、人の作品を取り込みながら、自分の世界を築いてゆくのだそうだ。

まあ、日本画の場合は、学習しようとすれば、模写からスタートするのが普通という、特殊事情もあると思う。

最近はさすがに、模写ばかりさせたりはしないだろうとアタシは思いたいが、模写させておくと、センセイは楽なので、そういう方法が取られていないとは限らない。(習ったことありませんので、真実は知りません)

デュシャンの便器のお友達のケムンパス

デュシャン便器は、別にどーということも無かったが、(→というか、そのすごさが、アタシにはまだ理解できていないということみたい。)隣にあった金張りの便器は、確かに仏像に見えて、それがスゴイと思った。

その便器は、「泉(ブッダ)」というタイトルである。

笑いが取れるアートというのは貴重である。

どんなに優れたアートに触れたとしたって、笑ったりできないものだ。

優れていれば優れているほど、こちらも真剣に見なければならない。

そういう作品は、美術館に鎮座しているから、金を払って見ればよい。

気軽に、ふっと心が休まるようなアートというのこそ、身近にあるべきなのである。

そうして、そういう作品というのは、見つけようと思ってもなかなか見つけられないものなのに、あるとき、偶然に出会えたりもする。

デュシャンのモナリザの叔母に当たるモナ猫

そのあと、BANK ARTというヨコハマ馬車道通りにある、銀行の跡地を展示スペースにしたという、話題の場所に行ってみる。

展示してあったのは、ペットボトルとか、ゴミのように見えたので、当然に無料と思ったのだが、800円も取られてしまう。

マジっすか?

デュシャンでさえ、概ね3枚を1000円程度でネットで購入したというのに、有料だとは思わなかった。

BANK ARTさんたちは、若手のアーティストたちが、アートで食えるようになるのを応援するという場所なのだそうだ。

作品を拝見したが、アートで食えるようになるというのを応援するというのは、聞こえがいいが、あの程度ではダメだと思われた。

それは、アタシが個人的に思っただけである。別に、作品が悪いという話ではない。

作品が、売買を目的に作られていないという話である。

ゲンダイアートのような、「目に見えない価値」を買ってくれる収集家は日本にはまだ少ないのだ。

要するに、アートに対する理解が進んでいないので、誰も買わないから、結局食えないということに他ならない。

まあ、身近に体験できる場所ができたというだけで、進歩なのかもしれない。

それほど、日本のアート環境というのは敷居が高いということである。

50円で売られていたピカソのポストカード。ゼッタイに模写します。キッパリ。

最初に行った、元第一勧銀の建物で、三角の駅の上にある場所の展覧会は、藤さんという人の作品。

彼の出演していたビデオによると、アタマに来て、会社を辞め、その退職金で1トン(10年分)の米を買ったのだそうだ。

それで、米の砂漠を作り、展覧会で展示した。

そんでもって、それを細々と食べていたのだそうだ。

その間に、生活に必要である食べ物などのゴミを捨てずにやっぱりとっておいて、イロイロな作品を作ったり、壊したり、色分けしたりして展示していた。

ゴミをねえ。

オジャラよ。ゴミを金払って見るアンタの方が、もっと、イカれているぜ。

マン・レイ撮影の裸婦の恋

1トンの米は、一年ほどでムシがわいてきて、とうとうそのムシは大きくなり、米は食べられなくなりそうだった。

仕方が無いので、ニギリ飯にして、冷凍でもしてまた食べようと思った藤さんは、何故か、カエル型のニギリ飯を作ったのだそうだ。

そんでもって、目にビーダマを入れてみた。

結構カワイイので、それをベランダに並べていたら、夕日が落ちてきた。

みたいな話を延々と続けていた。

アタシと竜さんは、飯で作られたカエルというのも見てしまう。アクリルかなんかに詰められたその飯は、中の僅かな空気などでカビだらけになり、ホンモノのカエルの標本みたいな形で並んでいた。

うげーっ。

嫌なもの見ちゃったよ。

それでも、帰りの電車の中で、あのゴミの展示が、一番記憶に残っているね。次が便器だよね。などという話で盛り上がる。

マジっすか?

ゲンダイアートは、見た人に、「疑問」を投げかけたり「なんでだろう」と考えさせたり、見た後に、「良くわからない」などと思わせたりすることをコンセプトにしているみたいだ。(推定)

もしそうなのだとしたら、記憶に残った上で、なんか、良く解らないと思わせた、ゴミの展示も、便器も、やっぱり、スゴイアートなんだということになる。

ふーん。ゴミがねえ。

そういえば、デュシャンは、サインをした便器を展覧会に展示をしようとして、美術館にキョヒされたという記録も残っていたみたいだからなあ。

便器だもんねえ。

でも、あの便器の版画は欲しいので、パクリ作品を作ることに決定する。

おほほほ。今アタマの中にあるのは、便器が花柄になって、てぬぐいに展開されている図である。こうなると、便器のてぬぐいというのもアリかと思われてくる。

そうして、アタシは、なんで油絵なんて描いているんだろうと、まだ平面から抜け出られないことが情けなくなってくるのだった。

オジャラは現代アートに行ってしまうのか?

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