しゃぼんだま あおいそら (ブログ by 芸術家 おじゃら りんご)

◆◆◆ 2819 ★ ゲルニカを初めて見たのは、 ◆◆◆

2016.12.16

ピカソ
私がゲルニカを初めて見たのは、卒業旅行でスペインを旅したときのこと。

そのときには、絵は、趣味ですらなかった。汗。


絵が好きだから、美術館や博物館を見て歩こう。その程度の旅行計画。


バルセローナのピカソ美術館には、二回、ミロ美術館には三回行った。ダリやエルグレコを見なかったことを、私は、いまでも悔やんでいる。。(* ゜▽ ゜*)ノ


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「私は、子供らしい絵を描いたことが無かった」
ゲルニカ
3.49 x 7.77m
プラド美術館のピカソ別館で見た。
「戦争と暴力を告発した時代の黙示録」
「二十世紀の芸術を変えた一枚」
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何故、ピカソは 創造と破壊を繰り返したのか?
43才のさくひん 
接吻。
カワイイ。
「女性を愛するとき、われわれは、その手足を測ることから始めるわけではない。われわれは、欲望によって愛するのだ。」
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それ以前のピカソは、、、、、
キュビズム時代の傑作。
対象を解体し、複数の角度から(一枚の平面に)パーツを描いている。;;;;;;;;;;;
二十五歳のピカソ
アヴィニオンの娘
遠近法も、陰影にゆる明暗もない。従来の美の基準とされているものが何も無い。誰も見たことのない造詣。得たいの知れない迫力。
言葉も意味も拒否し、見る者の感覚に訴えかけてくる。
美の伝統を拒否し、絵画芸術を新しい世界に導いた。
轟々たる非難を浴びながら。
「私の場合、一枚の絵は、破壊の集積である」
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ピカソは、幼少より、美術教師の父と美術館に行き、模写を繰り返していた。汗。
妹のコンチータが、ジフテリアにかかり、神様に祈る
「妹の命を救ってくれるなら、二度と絵筆を握らない」
祈りかなわず、天国に召されてしまう。
ピカソは、「妹が自分を画家にしてくれた」と思うようになる。
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科学と慈愛 15才(1895年)のときの作品。
「苦悩と悲しみ」を描く。
死を描くことから始まった画家人生。
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体に染み付いてしまった父親の影との戦い。
「私は、子供らしい絵を描いたことが無かった。子供たちのように描けるようになるには、一生かかった。」
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苦悩と悲しみかー。はー。考えたことも無いよ。

 

***

コメント

A川「ピカソは、喋るのと同じ早さで、絵を描いていた。言葉で伝えるより、絵を描いていた。
とりとめもないおしゃべりを、そのまま絵にした画家だ。
自由に表現をしようという画家に、どれだけ勇気を与えてくれたか。ピカソの後の画家は、自由に表現する上で迷う事がなくなった。
ピカソによって、絵画は、何らかの意味を表現するものから解放されたのだ。

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