◆◆◆ 2374 ★ セリザワケイスケ先生 ◆◆◆

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2015.12.21.

芹沢金圭介の世界

解説 池田満寿夫

明治二十八年 静岡生まれ 昭和三十一年 人間国宝に認定

「ひたすら、物の形の美しさを追い求める。日々の形の美しさを逃さず捉える人。」

その形を彩るのは艶やかで深い色。渋みと華やぎを兼ね備えた色。

 そこに、不快なものは何一つありません。

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*不快なものは何一つない。 それが今回のキーワード。

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作る喜びと、見る喜びが幸福な調和を奏でる、芹沢の世界。

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満寿夫と芹沢出会い

アメリカにいたときに、芹沢の和の世界の本やカレンダーに触れ、懐かしく、

外国にいたせいもあり、日本の良さを感じた。新鮮な、驚きみたいなものを感じた。

僕は、芹沢さんと似ているところもかなりある。

イロイロなものに影響を受けて、いろんイロンなものを盗んで、自分の作品にする。

という心の広さってゆうか僕は西洋かぶれが強くて、

どちらかというと、日本的なものに対し、反伝統的な表現を貫いてた。

ところが、自分の血の中には、日本があるし、美術品や、工芸品、民芸品に触れる要素というも

のは持っていた。

芹沢さんの作品に触れたとき、自然に、抵抗なく、和の世界に入っていけた。

ああ、ここに日本があったんだなーと。デザインという、ゴテゴテしたものが多い。詫びとかサビの押し付けがましいものを感じる。芹沢さんのは、そういうものを突き抜けた明るさがある。

池田と芹沢は、お互いに版を媒体して表現してゆく。

版というのは、非常に不自由である。その不自由な表現というのが、とても似ている気がする。

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芹沢が師と崇拝する柳宗義沖縄の紅型を見ての道に入った」と語っている。

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刀で線を切ると、筆ほど自由ではない。下絵の表情豊かな線は、単純化されてしまう。しかし、その狂雑な部分も切り捨ててくれる。あいまいなもの、中途半端なものはそぎ落とされ、後に残るのは純粋な美の形。

あたかも、美を妨げるよかのような技法の中に、実は、美の道が隠されていた。

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満寿夫は、特に、のれんが好き。今まで気にしたことがなかったけど、縄のれんのデザインを布にプリントした品は、見たときに、唸ってしまった。現代社会の中で、純粋に残されているものは、暖簾ぐらいである。

日本の商店などに、そのまま残っているものである。そこに目をつけたというのは、

芹沢さんのコロンブスの卵といえるだろう。僕にとっては驚きであった。

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芹沢さんの親しみやすさは、エッセンスを抜き取っている。色にしても、形にしても、庶民の持っている柔らかさを持っている。

セリザワデザインというのは、どこにおいても、昔からそこにありましたというような顔をしている。

元来デザインというのは、無名性である。「自分が、自分が」と主張してはいけない。

デザイナーの顔だけが見えて、デザインそのものが消えてしまう。

芹沢さんの場合、その無名性をよく知っていて、作品にそれが出ている。

ところが、何を見ても、芹沢桂介のデザインである。

これが、意匠家として素晴らしいと思う。

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デザインの中に、世界に通用する普遍性も伴っている。色の使い方、形の捉え方、芹沢さん自身も研究している。変なクセがない、いつも気持ちが良い。

生活の空間を気持ちよく埋めてゆこうという、根底に優しさを感じる。

優しさでイッパイになってゆく感じ。

色彩なんかも、艶やかな、一色か二色の渋い色。

柳の言葉

力の無い色だけれども、非常に美しい、極楽のような色だ。

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満寿夫、僕は、極楽というのがぴったりと思う。絵描きっていうのは、自分を主張するために絵を描く。僕の世界は、極端にいうと、小さなカンバスである。

あるいは小さな紙の世界。この中に全部入れちゃう。

人が理解しようがしまいが、どういおうと、どうでもイイヤ。という気持ちが、どっかにある。

ところが、芹沢さんの作品には、人々を幸福にしようという気持ちがある。自分たちの住んでいる

生活空間を豊かにしようという、優しい気持ちが、彼の全ての仕事の中にあるような気がする。

そこが、画家と工匠家との違いだろうと思う。

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「何一つ不快なものがない」芹沢芸術の一つの特色といってもいい。

芹沢作品は、付きつめてゆくと、宗教的なところに行くと思う。植物的である。

僕らは、やっぱり、動物の世界なんです。苦しみとか哀しみとか現すでしょ。

芹沢作品は、植物というのは、生き物、それも宇宙につながってゆく。

そういう植物的な気持ちで世界を見ている。

人間のドロドロしたものが入ってくる余地がない。もしくはシャットアウトしている。という明快なものを持っている。不愉快なもの、毒が無い。芸術は毒を持っている。

芹沢さんの作品に「全く毒がない」というのは、彼もご不満でしょうが、しかし、悪い意味じゃなく、これだけ素晴らしい豊かなものというのは、文明を感じる。

紙とか布というのは、人間の最初の仕事であり、それを生活を豊かに彩ってゆくという部分を感じてしまう。

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*芹沢作品というのは、幅が広い。着物から、カレンダー。ぽち袋に至るまで。

商業デザインの最初の成功者だろうと思う。というか、今だって、彼の暖簾を超えるデザインをアタシは見たことがない。

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ものが私のところに集まってきてくれている。イロイロと面白い話をしてくれている。そういう気持ちで集まってきてくれている。

はじめから、こういう物をあつめようとか、コレクターみたいな気持で集めているわけではない。

私を慕って、部屋に来てくれる。

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衣類なら、よそ行きでないもの、労働着が結局選ばれる。

友禅のような高級なものではなく、東北の刺子や簡単な絞りの丈夫な服。

私には、その方が魅力がある。

功利的に図案の元になるというのではなく、ものを作った気持ち。その造形が参考になるとかではなく、生活に勇気やくつろぎを与えてくれる。

持っていることを自慢するのではなく、自分がいつも慰められている。

或る意味では「作品」ですね。モノと一緒に暮らすということ。

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何をデザインするのかといえば、芹沢さんは、あらゆるものからデザインにしてしまう。

花とか、植物のみでなく、火鉢やストーブなどもデザインになっている。それが非常に自然で、バリエーションを進めてゆく。

それが非常にダイナミック。強い形を持っている。

バリエーションの付け方で、違った感じをつくってゆく。

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板絵・ガラス絵なども手掛け、本の装丁にも長いことかかわっていった。

*美しい本である。

装丁や挿絵が独り歩きしないよう、

それぞれの書物の顔と形を妨げることがないよう、

装丁饒舌に過ぎず、寡黙に過ぎず。

芹沢世界の調和が保たれている。

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絵本 どんきほうて

日本の武者に置き換えて、新しいドンキホーテを創造した(コレクターからの依頼)

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満寿夫談

僕は、貧乏で本が出せず、豆本というのを作っていた。

そのときに、僕の本を置いていたギャラリーで、はじめて、この本を拝見した。

日本の武者に人物を置きかえるというまでに何年かかかっていたらしい。

本というのは、読むというだけでなく、それ自身がひとつの美術品である。

それ自身が美しいものでなければならない。

人間が作った、本の中に文明がある。

美しい装丁をしよう。

手に持った時の喜び。

芹沢さんは、そういうものをずっと追求されている。っていうことは楽しい。

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芹沢美術の中の文明。

自分の持っている考えを一貫してやられている。生活態度。

着物とか、布地とか、人間の生活と密接に関係のある仕事をしている。

そこに、僕は文明を感じる。それを使う喜び、作る喜び。

僕らは、作る喜びしかない。使う喜びというのが分明だと考えます。

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一枚の布のデザインの中に、ひとつの文明が織りあげるられてるってことですね。

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僕はこもを背負って、ずた袋をして生きたいと思っている。

できたら、運転ができないけれど、いい相手があったら、全ての仕事の道具を収めてほうぼうを回ってみたい。

富士見西行なんていうのがありますね。

寝ころんで富士山と親しんで。またどっかへ行くというのをやってみたい。

北海道にも待ってくれている人がいるんです。アメリカ、ヒマラヤなんかにもね、

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やっぱ、旅なんですねー。またお金を貯めて、世界を旅したいです

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