◆◆◆ 2314 ★ 現代芸術の鑑賞方法のまとめ(NEVER)◆◆◆

個人的な感想にはコメントの前に*印

10月14日

ここで、現代芸術鑑賞のまとめをしておきたいと思う。

おじゃら現代美術館は、実は、現代アートの伝導所でもある。

現代アートの解説をきちんと出来る人は、作っている人でも少ない。

例えば現代芸術は、デュシャンの泉(便器)の作品からスタートする。

便器の、何処に芸術性があるのかという解説は、誰がしたとしたって釈然としない。アタシだって二週間ぐらい考えた。

理解しようというキャパがない、アート初心者には、厳しい場所にある。

くどくどと説明したとしても、解らない人には、未来永劫に解らない分野なのだ。

ただ、若い人たちには、理解に及ぶ人もいる。解らなくても、作り始めている人もいる。

私の論点だって、別段正しいのかどうか、評価出来る人も皆無である。

そんな話、したって不毛の論議。という泥沼となるため、間口を変えてもう一度考えてみようと思う。

現代アートの初心者が、まず、どう鑑賞すれば、楽しめるのか。

ここに着目してみる。

おじゃら、「まず、作品を見たときに、何が何だか、サッパリ解らない。

という作品は、全て現代アートだと思ってくれる?」

テレビ「何だかサッパリ解らないものは、現代アートなんですね。」

おじゃら「そうそう。おおぐくりな掴みはそれでオッケーなの。」

まず、現代芸術か、そうでないかは、見たときに識別できるようになる。

この作業は思いのほか簡単である。

「へぇ、これがアート作品なんだ。良くわからないわね。」

的な作品が大量に並んでいる展覧会もこの世には存在するということになる。

次のステップは、その作品が、概ね、次の三つに当てはまるかどうかを考えてみる。

一つ コンセプチャルかどうか。

コンセプチャルというのは、作品の解説をくどくどしている映像や、説明書き、音声ガイドなどのことである。

作家が、自ら、作品映像などをつくり、この作品について、1時間とか二時間とか、くどくど説明している作品が代表的である。

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もう一つは、そういったものが、全く無いという作品。

それは、ミニマルアートに当てはまる。ミニマルは、更に、創作そのものもを排除している場合も多い。

デュシャンの便器しかり。

マン・レイの釘がささったアイロンとかね。説明なども排除され、見るものの想像力に、作品の評価は委ねられている。

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最後の一つの作品は、大人数を動員して作られる、参加型アートである。

観客が加筆したり、触ったりすることで作品が変化したり、まあ、イロイロなタイプのものがある。

こういう類の作品は、参加者が、参加したということを覚えているため、記憶に残りやすい。動員すればするほど、記憶を残した人が多くなるということになる。

これは、クリストの、ザ・ゲートなんかがそうだろうと思う。

「皆で作って、何だかなーアート」と呼ぶ人もいる。まあ、動員すればいいというものでもない。それは、作品の骨子がシッカリしていないので、そう言われてしまう場合もあると思う。

だいたい、この三つに当てはまるはずなのだ。当てはまらない時には、何も考えず、「その他」のカテゴリーにとりあえず保留して、次のステップに進むことにしよう。

次に、現代芸術の評価について考えてみる。

現代芸術のゴールを、

「記憶に残る」と仮に定めてみる。

いわゆる、「現代アートは、記憶にる作品が優れている」と仮定するわけである。

より、深く長く、記憶に残ったものが、優れた作品という評価になる。(仮定ですよ、仮定)

そういう前提で、もう一度同じ作品を見て回る。

そうすると、記憶に残る作品というのは、皆無なのである。

テレビ「机の上に、おじゃらさんの作品、沢山並びましたね。」

おじゃら「ね、解説を聞けば、『マウス如来様』のほうが、『本を読む女』よりも、記憶に残るし、振り返ってみれば、面白いでしょ。」

テレビ「はい。でも、このクオリティーでは(廃材利用なので、販売できません(買いたいという人がいません)よね。」ひ言、販売できません(買いたいという人がいません)よね。」

おじゃら「まあ、そういうことになるよね。そういう部分も、アート界の常識との誤差(作品の自由度)を、提示しているってことになるわけよ。」

どれだけ、自分たちの固定観念から自由に作品を作るのかというのが、現代芸術家の仕事なのである。

なんか、イロイロ整理できて、スッキリしてきたわぁ。

このブログをお読みの方は、現代芸術否定派も多いと思います。

理由は、「見てもちっともいいとは思わない」作品だからです。

観点は、アナタが、いいと思うかどうかではありません。

「作品(表現が、自由かどうか。」ひ?が、自由かどうか。」

「記憶に残るかどうか」

ここなんですね。

今までの方法や、技術、表現をリセットして、全く自由である。

そういう作品に、より評価が高まるということになります。

「泉」の場合、創作することからも解放され、何からも自由になった作品であると考えれば、全く新しいと言えるでしょう。

そうして、その自由さが、見るものを引き込み、深く記憶に残るのです。

これが、ハンガーや、コップ立てなんかより、ずっと、便器の評価が高い理由なんです。

みんな、品の無い話の方が、記憶に残るんです。そういう下世話な人間の感情に訴える作品でもあるということになります。

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